予期しない爆発に長年酷使していた体が反応して、身を低く構えていたクリス達の耳は缶が落ちる音を拾った。
もう大丈夫だろう――――そう判断し、急いでウェスカーの生死を確認した。しかし彼等の目の前に、一瞬前までそこに大男のようなモンスターがいた形跡などどこにもない。
辛うじて、ウェスカーが立っていた場所に黒くくすんだ点が二つあるだけで、飛び散ったはずの肉片も血痕もない。
唯一、役目を終えたフレイムの残骸が、全てを物語っている。
「…………。死んだのか?」
あれだけ猛威を振るったモンスターが手品のように消えた。クリスはそれが信じられず、呆然と呟いた。だが心境は皆も変わらず、応えられる者はいない。
全てが一瞬だったのだ。クレアを人質に取られ、シェリーの期待に応えられない状態からウェスカーが消えるまで、20秒と経っていない。
「!?―――クレア!」
状況の整理が終わった頭はようやく身内の危機を思い出した。鋭い爪で首を握られていたのだから、ちょっとした傷でも致命傷になりかねない。慌てて様子を見に行こうと立ち上がったクリスだが、その袖を掴んで行かせまいとする人物が居た。
その手はジルのものだった。こんなときに何だ――――と、文句を言おうとする前に、彼女は顎でクレアがいる方向を指した。
「…っ…クレアぁ……」
「いいの、怒ってない。ああしなければいけなかったの」
「やだよ……したくなかったよぉ……」
ウェスカーが消えたことで緊張の糸が切れ、クレアとシェリーが互いに抱き合って泣いていた。覚悟も決められないまま殺す寸前だったのだ、無理も無い。
なるほど、これは野暮だ――――ジルが止めた理由を察し、クリスは安心してその場に座った。
遠くから見てだけでも目立った傷も見受けられず、ここは互いの生存を喜び合わせてやるのが年長の義務だろう。ならばその合間に、もう一つの義務も消化してしまおう。
「皆無事か?」
周りを見渡すと、誰も彼も自分以外の誰かを見ている。ウェスカーが反射したショットガンの弾で掠り傷や豆粒のような怪我が目立つが、生地が厚いアーミースーツのおかげで致命傷を負っている者はいない。
足を裂かれたクレアと顔面を切られたセイジだけだろうか―――――シェリーとクレアの向こう側にいる功労者を見てみると、どうにも場違いなことをしている者がいた。
聖司は杭を支えにして、顔にこびり付いた眼球の名残をしきりにふき取っている。これはいい。
もう一人――――エルは、銃は収めているものの、未だウェスカーが最後に立っていた所をジッと睨んでいた。普段の彼女なら聖司の世話をしているはずなのに。
まさか、まだ死んでいないとでも言うのか。慌てて部屋中を見渡して敵を探すが、隠れる場所が無い部屋の中には仲間しかいない。
それとも塵から再生すると思って警戒しているのか。いくらなんでもそれはないだろう――――クリスがそう思った瞬間、とうとうエルが動いた。
「…………チッ…」
舌打ちだ。相変わらず表情が乏しい顔では機嫌が悪いことさえ読み取りにくい。だが、彼女の機嫌が悪くなった理由は、クリスにもすぐわかった。
爆発を起こした位置から一番近い壁が内側にへこんだ。最初は拳大の面積だったが、別の壁も引っ張られるようにへこみ始める。
それを見たクリス達は、海底施設で爆発物を使ったときの支障を思い出した。それほど大きな爆発ではなかったが、聖司の一撃を受けて叩きつけられたウェスカーは壁をへこませ、その近くで起こした爆発に支柱が耐えられなかったらしい。
壁を形成する部品が外れるごとに、へこみの量と大きさが増えていく。
「退避だ!」
もう感慨に浸っている場合ではなくなった。深海という加圧され続ける場所に計算されて作られた構造物は、一部が歪んだだけで均衡を保てなくなる。壁が壊れたらどうなるか――――そんなことは考えなくてもわかる。
「走れる奴は先に行ってエレベーターの準備をしろ!シェリー、お前もだ!」
「でも、クレアが!」
「俺が運ぶ!」
クリスは装備品のほとんどを捨て、貧血を起こしかけているクレアを背負った。
別のところで、エルも重たい銃を捨てて聖司の補助をする。
「早く!」
走りながらジルが急かす。同時に部屋中の壁が軋み、歪な形になり始めた。
人間一人という荷物と失明した人間の足は遅かったが、部屋が潰れきる前になんとか移動できた。
最後に出たシェリーが時間を稼ぐために部屋の扉を閉ざす。
「こんな扉じゃいくらも保たない、急いで!」
わかっている――――クリスは背中の荷物を担ぎ直し、扉に背を向けた。もうここに用はない。
「シェリー、一体何が起きんだ!部屋から出るだけじゃ駄目なのか!?」
「この施設は空気圧と計算された構造で海底2000メートル分の水を支えてます!あの壁が壊れたら空気が漏れて、施設を潰しながら水が流れてくる!」
「なんで建物が潰れんだよ!」
「膨らんだ風船から空気を抜けば縮むでしょ!」
正に自然の自爆装置。意図して起きた現象ではないが、施設を襲われたときの保険にはなっていたかもしれない。
「空気って凄い偉大だ」
「言ってる場合ですか!」
その通り、言っている場合じゃない。彼等の背後には歪み切った壁があり、あと少しで破れるだろう。シェリーの予測は正しく、もういくらも保ちそうになかった。
だが人一人背負っているクリスと、エルに手を引いてもらっている聖司の足は些か遅い。
そのためにシェリーは残ったのだ。一足先に扉を開き、最期に残って扉を閉めるために。
クリスに続いて聖司が扉を潜りったらすぐに閉める。急いで先回りするために地面を蹴ったシェリーだが、不意に足に何かが引っかかり、躓いてしまった。正確には足首に何かが絡まったのだ。
一体なんだ――――慌てて足を見ると、絡まったモノは人の手だった。
ゾンビだ。人間の、頭部が無事に残っている死体が次々に動き始めた。BOWの血飛沫に含まれていたt−ウィルスが感染したようだ。皆一斉にシェリーへ、そして出口へ這いずって行く。
「(道連れって言うの……!)」
その姿はまるで、シェリー達を逃がすまいとしているように見えた。それとも、まだ死にたくないと救いを求めているのだろうか。
「シェリー、使え!」
聖司が頼んだのか、エルが拳銃を投げ渡してきた。
受け取ったシェリーはすぐに足を掴んでいるゾンビの額を撃ち抜き、出口へ続く直線状にいるゾンビを撃つ。
今更ここに留まって死を迎える謂れは無い。自分の足を掴んでいる手を振り払い、シェリーは出口へ走る。
そのとき、遠くで何かが壊れる音がした。とうとう最奥の壁が水圧に負けたのだろう。その証拠に施設全体が鳴動し始めた。
シェリーはゾンビ達のうめき声を聞きながら、必死に出口へ這いずって来る彼等に別れを告げ、扉を閉める。この先は生きている者だけの特権なのだから。
「もう、どうして!?」
クリス達より先にエレベータールームに付いたジル達は、いつでも上がれるように準備をするはずだった。
しかしレベッカが操るコンソールは、いくらキーボードを叩いても反応しなかった。
電力が通っているのにコンソールが反応しない。おそらく基盤が何らかの負荷を受けて使えなくなったのかもしれない。
それはすなわち脱出できないことと同意義なのだが、レベッカはそんなに慌てていなかった。
その理由の一つは、エレベーターが壊れた時のために設置されてあるタラップを、すでに見つけているからだ。こういう最新機器が使われている場所ほど、予備は必ずある。最低限の通路はもう確保されているから、そこまで慌てる必要は無い。
そしてもう一つ。エレベーターが壊れていないと仮定して、何かしらの要因でコンピューターが故障して動かなくなったとしても、手動で機械を動かす方法があるからだ。
デジタルほど肝心な時に信用できない。それはどの分野に限らず、必ず手動(アナログ)で機械を動かす方法が確立されている。
これは建造や機器の使用に対する必須条件のようなもので、最先端技術になるほど顕著に現れる。自動ドアから戦闘機に至るまで、必ずアナログ式の装置は組み込まれるのだ。
前述のタラップが予備なら、こちらは副用と呼ぶべきだろう。
つまりエレベーターはまだ使える――――可能性のほうが高い。少し分が悪い賭けだが、長いタラップを大勢で上り続けるのはゴメンこうむりたかった。
「!?」
遠くで何かが壊れる音がした。同時に施設全体が鳴動し、その音に紛れて足音が聞こえる。
ようやくクリス達が来たようだ。
レベッカはすぐ上昇できるように、非常用装置の赤いレバーに手を添えた。
「来た!」
扉前に待機しているカルロスが叫んだ。すぐ閉めれるようにボタンに手をそえ、クリス達を待つ。
だがあと100メートルも無いというところで、とうとう壁が決壊してしまった。急激に漏れていく空気が通路を次々と潰し、なだれ込んでくる海水が瓦礫とゾンビを連れて襲ってくる。
「急げ!早く!」
もしも間に合わなかったらこの扉を閉めなければならない。そんなことをさせないでくれと、カルロスは必死に叫んだ。
しかし荷物を抱えて走るクリス達よりも、崩壊のスピードが早い。カルロスはいざというときのための覚悟を決めていたが、これではどちらが早いのか目算できなかった。
「(頼むぜ!)」
そのためカルロスはクリス達が中に入るまで扉を閉めないと決めた。ようやくここまで来て、見殺しになどしてたまるか。
あと50メートル。シェリーがクリスの後ろにまわって、少しでも早く走れるように補助する。
あと30メートル。漏れる空気の量が多く、通路全体が軋み始めた。
あと10メートル。一足先に聖司とエルが到達した。残った3人もすぐそこだが、背後の瓦礫交じりの海水も近い。
「閉めてーーー!!!」
もう間に合わない。素早く悟ったシェリーが叫ぶが、カルロスは扉の開閉ボタンを押さなかった。
「Jesus!!」
あと5メートル。カルロスの叫びは神に届かなかったが、意図を汲んだ者がすぐ傍に居た。
「掴まれーー!!」
聖司とエルが触手を伸ばした。4つの触手がクリスとクレアを強引に包み、2つの触手をシェリーが掴む。
わずかな触感で人の温もりを感じた聖司は、その怪力を駆使して思い切り引っ張った。
加速感と浮遊感を同時に感じ、文字通り彼等は飛んだ。そしてようやく出口への扉をくぐった。
カルロスはコンマすら違えず開閉ボタンを押した。扉が閉まる瞬間、海水が僅かに部屋の中へ入ったが、無事に通路と遮断することに成功した。
そして、カルロスがボタンを押すタイミングとほぼ同時に、レベッカが昇降レバーを回す。
「―――――――はぁっ!」
勢い余って倒れたまま、仰向けに転がったクリスは思い切り吸った息を、同じように思い切り吐き出した。
「荷物抱えて全力疾走なんか……もうやらないぞ」
ましてや途中で捨てられないのだから、余計性質が悪い。
しかしさすが特殊部隊の人間と言うべきか、いくらもしないうちに息を整え、少しダル気味に上半身を起こした。
背負っていた荷物は無事だろうかと様子を見ると、貧血で気を失っている妹が確かにいる。
「クレアは私が」
「頼む」
怪我人をメディックに任せ、クリスはようやく一心地がついた。まさかあの大惨事で全員が生き残るとは思っても見なかったからだ。
最悪自分が死ぬ覚悟すらしていた。
自分が生き残っているのは間違いなくシェリーのおかげだ。命令を無視してまでサポートしてくれた彼女がいなければ、今頃潰されて深海魚の餌になっていただろう。
その当人は、引っ張った人間の胸の中で、自分と同じように息を整えている。
「終わったな………重畳とは言えないが……」
この作戦で得たものは多く、仲間の仇を取る事も出来た。それでも責任者の逮捕ができなかったのは、一生心残りとなって消えないだろう。ある意味で最大の目標だった『アンブレラの目的』も、文字通り海の藻屑だ。
ウェスカーより早く来ていればよかった。ウェスカーなどここに来なければ良かった。
そういう愚痴も、終わった今では意味がない。
ここで行われていた研究も、機雷で消えてなくなる。
「!?」
クリスは重要なことを思い出し、急いで腕時計を見た。ウェスカーとの戦いからここまで余裕がなかったため、確認するのを忘れていた。
だが支給品のデジタル時計には灰色の画面が映っているだけで、肝心の時間が浮かんでいない。いくらボタンを押しても、叩いても反応は無かった。
「レオン、時計を見てくれ。今何時だ?」
「…………すまない。さっきので壊れたらしい」
一番近くにいた仲間に頼んでみるが、結果は自分と同じものだった。
「お前達は!?」
「駄目ね。壊れてるわ」
「俺もだ」
偶然もここまで重なれば必然。何かよくない兆候なのではないかと不安に駆られたクリスは、疲れていることを承知でシェリーに尋ねた。彼女は聖司の胸にもたれかかったまま、億劫そうに彼の腕時計を見る。
「…………。ショートしてる?」
答えを出したシェリーも少し驚いている。
ショート――――つまり電子回路が短絡するには、過程がどうあれ基盤に設定されている受電値を超えなければ起きない現象だ。
その原因は彼女がもっともよく知っているモノ。
「(フレイムか〜……)」
どういう現象が起きてウェスカーが消えたのか彼女にはわからないが、伝導コイルに蓄電されていた電気の量からして、何かしら影響を与えた可能性が高いことはなんとなく理解した。ひょっとしたら爆発に混じって拡散したかもしれない、と。
だとしたらこの現象も頷ける。人間にとっては取るに足らない放電だったかもしれないが、電気に何十倍も敏感な回路には致命的だったということだ。
「だからコンソールも動かなかったのね」
説明を受けたレベッカはようやく納得がいった。そして安堵する。
原因がわからない故障は後々厄介なことに発展する恐れがあるが、理屈が合えば対処もできる。前述したように、電子回路が壊れても手動で動かす方法が確立されているのだから、例え潜水艦の電子部品が壊れていても脱出できるのだ。
なんだ、そうなのか――――と、安心したクリスは、
「いや、違う、良くない!これじゃあ機雷がいつ落ちてくるかわからないぞ!」
肝心なことが解決されていないことに気づいて、一際慌てた。
SEARSの無線を盗み聞いてから今までの間で、45分の余裕がどれだけ消費されたのかわからない。特にウェスカーと戦っている時は感覚そのものが曖昧で、時間を辿っても明確に思い出せないのだ。
高名な学者は言った。退屈な一時間は一日のように感じるが、満たされた一日は一時間のように感じるのだ。
仕方が無く、また全力で走る覚悟を決めるしかなかった。自分の命だけではなく、潜水艦のクルーの命にも関わっているのだから。
「…………。エル、あれから何分経った?」
「30」
その覚悟が2人の会話で消えて無くなった。淀みなく答えた彼女の言葉が信じられず、驚きと疑惑が混じった視線が集まる。
そのうちの何人かは彼女なら出来てもおかしくないと、ある種の諦観を感じていた。
「もうちょっと言うと、エレベーターが上に着くぐらいでちょうどそれぐらい。もし機雷がきっかり15分後に来るんなら、小走りでも十分出られる」
彼女が言うのならおそらくそうなのだろう。彼女にはそう思わせるほどの実績がある。
クリス達は今度こそ安堵する。急がないわけにはいかないが、ある程度の保障があるだけで心境はかなり落ち着くものだ。
しかし、そうは問屋が卸さないとでも言いたいのか、エルは言葉を続けて―――ただし―――と呟いた。
「ここが壊れなかったらね」
それはどういう意味だと口に出す前に、無駄に広いエレベーターが大きく揺れた。同時に下へ降りていく壁の速度が少しだけ遅くなる。
「回路が全部壊れたから、施設を維持する装置も手動で再起動しきゃいけない。私達はそれをしていない」
でしょ?――――と、エルはなんでもないように言い切った。
宇宙、ないし海底で施設を作る場合、温度から空気圧まで管理せねばならず、その微妙なバランスを人間の手で調節することはほぼ不可能に近い。つまりコンピューターに頼らざるをえないわけだが、急に装置が止まったからと言って施設が急に崩れるわけがない。
今回はたまたま、装置が止まったタイミングと施設の一部が壊れてしまうタイミングが一致してしまい、連鎖反応を起こしてしまったのだ。
幸いにも施設が頑丈なおかげで一気に崩れる心配はなさそうだが、金属の悲鳴は確かに大きくなり、広がっている。
結局、どうあがいても彼等は走らなければならなかった。
エレベーターが到達。それがカウントダウンの合図になる。