ゲストルームに戻っていたシェリーは、運良く武装集団の凶行から逃れていた。乗客のほとんどが原因不明の死を迎えてしまい、反撃する余裕が無かった彼女は見つからないよう潜伏していた。
それから24時間近く経ち、船全体が静かになって外へ出ると、武装集団の死体を見つけ、彼等がただのテロリストではないことを悟る。
その矢先、船尾から起きたであろう爆発は、現状を知ろうとする彼女にとって数少ない機会であった。
割れた窓ガラスを通って船尾に着くと、確かに爆発が起きた跡が残っていた。発火性の高い手榴弾を使ったのか、火のカスが船尾の床板を焼いている。酸素ボンベや消火器のような爆発では、まず炎など出ない。
武装集団の誰かが居たのは確実。そして爆発を起こしたということは、使うべき『敵』が現れたということなのだろう。死体が無い以上、少なくとも両方生きてこの船を徘徊しているらしい。
あるいは吹き飛ばされて海に落ちたか。
ふと、足に木屑とは違う感触を感じて目を向けると、特徴的な物が落ちていた。
爆発の所為で少々黒ずんでいるが、拾って動作を確認すると問題なく使えることがわかり、シェリーは安堵のため息を吐く。
いくら探してもこれだけは絶対見つからないと諦めていた物が、ようやく見つかったのだから。
「ついてる」
誰のものかわからないリボルバーは使われた痕跡が無く、6つしかない弾装に入っている弾は全て未使用だった。
爆発に巻き込まれたのなら試しに一発撃ちたいところだが、補充が絶望的である今ではそれもできず、ぶっつけ本番しかなかった。念入りに動作を確認してみても、最後は自分の運が頼りだろう。
そしてシェリーは、自分の運の無さを嫌と言うほど知っている。
できることなら使わないで済むよう祈りながら、他になにか無いかと辺りを見回す。
すると、今まで火で覆われていた箇所が風で消火され、大き目の穴を見つけることが出来た。下を覗くとちょうどゲストルームの一角が見え、すでに誰かが降りた痕跡である、炭の足跡が残っていた。
来た道を戻ることも可能だが、そろそろ生きている人間がどちら側なのかはっきりさせておく必要があると判断し、シェリーは階下へ飛び降りた。
シェリーに割り当てられた部屋とは違い、この部屋はランクが上らしい。古風を演出するために部屋中の床、壁、照明が近代の客船に似せている。どうやら一等客室のようだ。
そし部屋主である女性もどこぞの社長令嬢なのか、着ているイブニングドレスはやけに金がかかってそうな装飾だ。
持ち主の血で赤茶けていなければ、さぞ灯りの下で映えただろう。
「?」
何か使える物は持っていないだろうかと、小物入れ用のポシェットや備え付けの棚を物色していると、外から戸を閉める音がした。
シェリーはすぐに外へ出て確かめようとしたが、こんな状況で生きている人間がまともなわけがないと思い直し、ドアを薄く開いて外を覗き見る。
客室のホールは死体で溢れていた。老若男女、客も従業員も武装集団も全て謎の死を遂げ、このホール以外のあちこちにも転がっている。
件の生存者は4つの部屋のどこかに入ったらしいが、鉢合わせにならないよう、出てくるまでゆっくり待たせてもらうことにした。
よくよく考えればこの船はアンブレラの物なのだから、こちらに友好的な者が乗っている可能性は大いに低い。ましてや新商品のプレゼンテーションを予定し、オズウェル・E・スペンサー本人も来訪するとなれば、誰が目をつけてもおかしくない。
自分もその一人なのだから、未知数の組織から送られた諜報員が、どれだけ紛れ込んでいるのか検討もつかなかった。
そこまで考えてシェリーは、これが罠の類ではないかと思いはじめた。そもそもこんな場所でBOWのプレゼンを行うこと自体おかしいのだ。
豪華客船という偽装されたネズミ捕りの中にBOWという餌があれば、あるいはオズウェルに接触しようと企んでいれば。
なにより、たとえ罠であってもネズミの親が失うのはスパイ一人というローリスク&ハイリターン。
オズウェルがここへ来るのは明日。その前日に起きたハイジャック。あの武装集団はアンブレラの差し金ではないだろうか。
「!?」
銃声だ。おそらくさっきの人か、部屋の中にもう一人いたのだろう。
シェリーはドアを少し開いて外の様子を伺った。そろそろ誰が生き残っているのか確かめたい。
「きゃあ!!!」
視覚外から現れたソレは、シェリーをドアごと弾き飛ばして押し入ってきた。死体と同じ土気色をしたソレは知性の欠片も宿さず、ただひたすら唸りながら彼女を求めた。
ここでもなのか――――目の前で必死に口を開閉するモノの正体を知ったシェリーは、こういう運命の中にいるのだと改めて思い知った。
「くぅ………」
理性が無いゾンビは抑制する機能が働かないため幾分力が強い。それに引き換え子供の腕力は鍛えていても弱弱しい。
その所為で彼女は銃を構える暇が無かった。
「(いい加減に―――――)」
襲われている場合じゃないことを思い出したシェリーは、ゾンビの腹を蹴って押し剥がそうとした。
いざ――という瞬間、銃声と共にゾンビの抵抗がなくなった。だが奇妙なことに、抵抗はなくなっても相変わらずソンビはシェリーを食べようと動いている。
どんな理由にしろ好都合なのは変わらなかった。彼女の足は予定通りソンビを蹴り上げ、脇へ退かすことに成功した。
そしてタイミングを見計らっていた人影が、ゾンビの頭を撃って止めをさした。
「お怪我はありませんか?お嬢さん」
とても紳士的な態度が似合わない男だった。加えてガンベルトやフックライトは、現地調達できるものじゃなく、あんな無骨な銃を持ち込めるような警備でもなかった。
この男は船員でも乗客でもない。外から来た人間だ。
シェリーは何も言わずに銃を構えた。
「Hey!待って――――」
助けた矢先に親の敵のような顔をされ、銃を向けられた金髪の男は敵意が無いことを示すために両手を上げた。
だがシェリーは意に介さず、銃の引き金を全て絞った。
弾丸は彼のコメカミ辺りを通り過ぎ、背後にいたゾンビの眉間に命中した。
銃がちゃんと動作したこと、標準に狂いが無かったこと、彼が勘違いして反撃してこなかったことに安堵したシェリーは、銃を下ろして大きくため息を吐いた。
「一言言ってくれると有難いね」
「ただの学生そういうことを求めないで」
シェリーは彼の手を借りて起き上がったが、もう銃を向けなかった。武装集団ではなく、悲鳴を聞いて助けに来てくれただけで、少なくとも悪人ではなさそうだと判断したからだ。
「最近の学生は随分大人びてるんだな」
「……どこ見て言ってるの」
悪人ではなさそうだが、スケベのようだ。
銃声に反応したのか、ホールで倒れていた死体が呻き声を出し始めた。こうなると連鎖反応のように次々と死体が起き上がる。
ここは危険だ――――2人は共通の認識をアイコンタクトで確認して、今居る部屋を出た。出入り口が一つしか無い客室に立て篭もれば、脱出することも不可能だからだ。
部屋から出たシェリーは真っ先に、一番近い扉へ駆けた。だが格階を繋ぐ階段ホールへの扉は、電子ロックの所為で開かなかった。
ならば方に賭けるしかない。幸運にも、起き上がろうとしているのはゾンビ一匹だけで、反対側へ向かうのはそう難しいことではなかった。
金髪の男は一足先にドアの前へ着くと、ポケットからカギを取り出してドアのロックを解除した。何故この船は同じホールにアナログとデジタルのカギを併用しているのだろうか。
そんな疑問も、今の2人が気にすることはなかった。
ドアをくぐった先の廊下には、すでに起き上がっているゾンビがいた。ご丁寧に次の部屋へ通じるドアの前を陣取って。
しかしこちらに気づいている様子は無く、都合よくボサッと突っ立っているだけだ。
シェリーはさっさと片付けて先に進もうとしたが、あと5発しかない弾を無駄に使うのもどうかと思い直し、ここは紳士にエスコートしてもらうことにした。
突然肘でわき腹を小突かれた男は、小さな相方が指で示すモノを見て少しだけ苦笑した。さっさとやれと急かしているのか、ジト目で見る彼女に軽く頷き、その場から狙いを定めて撃った。
射線上に遮蔽物はもなく、止まった的に当てるのはそう難しくない。ゾンビは即頭部に小さな穴が出来ると、糸を切った人形のように倒れた。
しかし同時に、反対側にいたゾンビが銃声に反応して2人を捕捉してしまった。まだ血が固まっていないのか、歩くスピードが若干速い。
そんなことは百も承知していた2人はそのゾンビを無視し、倒れているゾンビを跨いで次の部屋へ向かった。いちいち相手をしていては、弾がいくらあっても足りないのだ。
先日セレモニーを行ったホールに入り、すぐに周りを調べる。視界に相方以外の人間がいないことを確認して、ようやく安全な場所にたどり着けたと安堵し、手すりに腰を落ち着けた。
窓から見える曇天の景色は変わらず、海は水平線の彼方まで流れていく様子しか見えない。目的地を示すはずの人間はいないだろうに、船はまだ動いている。
もしも自動航行なら、寄港する前に船を止めなければバイオハザードが拡大するだろう。
『…………』
落ち着ける場所まで来たのはよかったが、いざとなると口を出すタイミングが掴めず、豪華客船の優雅なクルーズを他人と一緒に満喫するしかなかった。
こういうときに彼がいれば、こんな思いもせずにすむのだろうか。
「弾を一つ、貸して貰えないかしら?」
仕方なくシェリーが口火を切った。
一瞬要望の意図がわからない素振りを見せた男は、彼女が持っているリボルバーから空薬莢を摘み出しているのを見て、納得した。
銃をスライドして未使用の弾を取り出し、シェリーに手渡した。
その弾を空いた薬室へ入れようとするが大きさがあわず、シェリーは溜息をついて弾を返した。
「君は正規の乗客かい?」
受け取った弾をポケットに納めた隣人は唐突に尋ねてきた。おそらく無駄な時間を過ごせない事情があるのだろう。それはシェリーも同じこと。コレを機に互いが知らなければならないことを確認しなければならない。
「数日前の寄港で乗船した………一応正規の乗客よ」
「おいおい、この期に及んで隠し事は無しだ。少なくともこの船を出るまでは、仲良くできると思わないか?俺達」
もっともな意見だ。互いに命を助け合える関係はすでに出来上がっている。悪人ではないという認識は、お互い違えようも無い。
「淑女の手を許されるのは紳士の器次第――――というのは?」
この言回しは十分な効果があった。とどのつまり、誠意を見せるのにレディーファーストは適応されないということだ。
結局この場で一番怪しいのは、正規の手続きを取らずに乗船したであろうこの男なのだから。
「………………。U.S.STRATCOM所属、対アンブレラ追撃調査員、ブルース・マッギャバン」
「アメリカ軍?」
全て事実と捉えるには少し信頼が足りない。
それでも、隠す気が微塵も無い態度は好感が持てる。
「シェリー・バーキン。これでも大学生よ」
「バーキン?」
「そ。あのバーキン」
対アンブレラを称するだけあって、シェリーの父親のことは知っていたらしい。それでもシェリーに対して驚いているのは、家族構成まで把握していなかったか。
それとも、アンブレラのウィルス開発者にして、ラクーンシティ消滅の元凶の娘が、アンブレラ所有の船にいることを疑っているのか。
どちらにしろシェリーには、彼の事情などどうでもよかった。
「アナタはどうしてこの船に?」
「………。ここをハイジャックしたテロリストに、元アンブレラ幹部が参加していると聞いて、貧乏くじを引かされたのさ」
「それだけ?」
「もちろん」
「それじゃあ、ここで新型BOWの品評会が行われる予定だったのは知らなかったの?」
シェリーの問いの意味がよほど大きかったのか、ブルースは眼に見えて狼狽した。てっきり『それも込み』だと思っていたシェリーは、仕事がやり易くなったことを喜んだ。
目的が違うのだから、別行動するのは当然だ。
「ならテロリストの方はそっちで何とかしてね。こっちは仕事に戻るから」
「おい―――!」
「テロリストがどんな犯行声明を出したのか知らないけど、こんなところで時間を潰してる暇なんてないでしょ?」
何かを言いかけたブルースに止めを呟いて、シェリーは適当なドアを選んでホールから出て行った。
「何がアンブレラ追撃調査員よ。あの時なにもしなかったくせに」
憤慨ではなく嘲笑のように呟き、シェリーは勢いよくドアを閉めた。
ブルースと別れて一時間は経っただろうか。広い船内ではあるが、時折どこからか銃声が聞こえ、彼の生存をわざわざ教えてくれる。
遠慮なく使っている銃が羨ましく、同時に耳障りに感じるシェリーの顔はなんとも表しがたい表情をしていた。
おまけに船の各所に設置されている弾薬庫のおかげで、向こうは弾の心配がいらない。その余裕からか、ブルースは船中のゾンビを片っ端から退治してくれている。
シェリーもそこだけは感謝していた。ラグジュアリークラスのクルーズシップには一千人以上の人員が乗船しているため、ゾンビの数は言うまでも無く、閉ざされた箱舟に溢れかえった彼等をやり過ごすのは困難に極まる。
残りの弾は5発。それもロシアンルーレット並の賭けを伴った不良品。このサバイバルを生き抜くための拠り所には程遠い道具だ。
だからシェリーは極力『先へ』進もうとしなかった。襲撃にあってから作動したセキュリティで各フロアへの道は閉ざされ、飢えた猛獣が獲物を待ち構えている。
そんなところへ丸腰同然で入るような無謀と度胸を持ち合わせていないシェリーは、ある場所から極力動かないようにしていた。
「お久しぶり」
吹き抜けのホールに設置されていた隠し階段が姿を現し、その直後に上がってきたブルースへ、シェリーは軽い挨拶を投げ掛けた。
そう、シェリーは一度ホールを出た後、また同じところに戻ってきたのだ。
「感動の再会なのに、素っ気無いぜ?」
「お互い様でしょ」
ブルースの口調は相変わらず軽かった。だが彼の表情は、この船の現状に相応しい―――余裕の無いものに変わっている。
「その様子だと奴には会ってないな?」
「………。人間大の爬虫類じゃないみたいね」
プールデッキに放置されていたハンターの死体は、シェリーもしっかり確認していた。残念ながら、新型BOWと呼ぶには少々役不足だったらしい。
代わりにレベッカが見つけた情報の信憑性は上がった。表面上はまったくと言っていいほど普通の客船を装っていたおかげで、シェリーは思い切った捜査ができないまま船が襲撃された。
彼女にとって嬉しい誤算は、そのツケを目の前の男が一手に引き受けてくれていることだった。
「(男の人を利用する………まるでスパイ映画みたい)」
その男の人が、別の女スパイにもしっかり利用されていると知りようもない。
「モーフィアス・D・デュバルという名前で、このハイジャックの首謀者だった男がいる。……いや、正確には居た」
「死んだの?」
「残念ながら生きてる。なんだかよくわからねぇ生き物になって、さっき襲われたんだ。ありゃあ多分――――」
タイラント化って奴かもな―――――その言葉は実にわかりやすく、的を得ていた表現だった。
ウェスカーを始め、アレクシアやスティーブのような、t−ウィルスに感染してゾンビにならず、強靭な化け物になった人間を指す単語だ。そのモーフィアスという人物の身に起きた変化は想像に難しくない。
「何か特徴は?血が発火したとか、とても早く動くとか……なんでもいいの」
「機敏と言えばそうだが、あの爬虫類と同じぐらいだ。背丈も俺より少し大きい程度だし……ただ銃が効かない。当たっても電気みたいなもんが迸って弾いちまう」
電気と聞いて、シェリーはロックフォートの資料にあったサンショウウオのBOWを思い出した。元々持っていなかった機能や器官が感染後の変異によって発現するのは、このウィルス群の特徴である。
電気ウナギのように筋肉が発電板化したと考えれば、十分あり得る変化である。
ただし、銃弾を防ぐほどの電気を帯び続ける時点で、やはりデタラメとしか言いようが無い。
「他には?」
問題は多々あるが、今は相手の特徴をまとめて使われたウィルスと攻略方法を断定する材料を集めることが先決。
なにも知らずに対峙するより遥かにマシなのだが、ブルースの返答は――――。
「なんつーか……女になってた」
「…………」
どこぞの娯楽小説に出てきそうなことをのたまった。それを聞いたシェリーの顔は、表現すべき言葉が絶尽するほど歪んでいた。
「それしか言いようが無いんだ!片腕にでかい爪があったり、体中が青白くなってる化け物が、女の形になってたんだ!」
「………『萌え』って知ってる?」
「MOE?知らねぇな。どこの国の言葉だ」
「日本」
とりあえず致命的な言葉を知らないことが救いになった。しかし依然、シェリーは怪訝な顔を崩さない。
ウィルスにより扁爪から鉤爪へ変化するのはタイラント特有の現象であり、肌色の変化も組織が劇的変化を起こした産物なのも解明されている。
しかし性別が変わるという効果はt・G・ベロニカには無い―――――が、実はタイラントには『生殖器の衰退』が確認されている。
これまで確認されたタイラントは男性体しか作られていない。これは商品価値を上げるための一環だが、理由はもう一つある。『繁殖』をさせないためだ。その意味を今更語ることは無い。
そして意味が無い器官は余計な飾りであり、万が一の事態を起こさないために芟除するのは当然だ。
ところがタイラントには生殖器を切除した痕跡は無く、処理の途中で別の器官になった可能性がある。
つまり生殖細胞の形成に直接関係のある遺伝子『性染色体』になにかしらの反応を示すのだ。その結果が『性別の反転』ならば、『生殖器の衰退』と同じ理屈であり、十分考えられる変化だった。
異常なほど稀であることは言うまでも無い。
「(でもどうしてそんなことが……)」
現在の技術なら遺伝子の組み換えは可能だ。その数々の実験の果てに弾き出された事実の中に、『性別を強制的に変質させると細胞の脆弱化』が確認された。
例をあげると、オスの細胞からメスのクローンを作ったとき、生殖不全や虚弱体質等が多数報告されている。
細胞分裂を起こす前の処理でこれならば、すでに完成した人間がどうなるのか見当もつかない。プラスに働く要素は限りなくゼロに近いだろう。
加えて男性生殖器にはテストステロンの類を生成する機能があり、これは骨や筋肉の成長を促進する物質である。怪力が売りのタイラントには無くてはならないものだ。
生殖器を切除しなかった理由もここにある。わざわざ商品価値を貶める研究者はいない。
だが女性体になれば当然それらは失われ、非力とまではいかなくとも従来のタイラントより劣る。ウィルスの所為で不安定になった細胞が、性別の変質にともなう脆弱化により、体を維持することそのものが困難になるだろう。
これはもう進化ではない、退化だ。
「皮肉ね……」
「あ?」
「なんでもない。ありがとう、そのオカマには気をつけて行くわ」
外見と特徴を聞き終えたことで、ブルースから得られるものが無くなったシェリーは階下へ降りようとした。
「おい、まだ一人で行くつもりか!?」
「リスクマネジメントよ。2人一緒のほうが返って目立つでしょ」
「ここにいるのはアイツだけじゃないんだぞ!?変な触手を持った化け物が―――――」
ブルースが全てを言い終える前に、シェリーの足が止まり、半身だけ振り返った。
話を聞く気になったことを重畳に思うものの、彼女の顔は話を聞く人間の顔ではなかった。
「それ……ネメシスだった?」
質問ではなく、尋問をする人間の顔だ。
「ネメシス?いや、それはわからない。暗かったし、襲われたのも一瞬で」
「そう。じゃあ気をつけてね」
「おい!」
そう言い放って、シェリーは今度こそ階下へ降りた。ブルースは追うべきかと思案するが、任務のほうが優先されるとエージェントとしての思考に上書きされ、小さく舌打ちをした。
「ヒーローにはなれないな、クソッタレ」
隠し部屋に入ったシェリーは大きく溜息をつく。彼女を不快にする原因は多々あるが、まずはこの部屋だ。
BOWのプレゼンに相応しい仕様。肉厚の硬化ガラスという檻の手前に設置されたイスは、まるで映画館のソレ。本来ならここに客がおり、t−ウィルスが作るモンスターを感心し、期待し、評価している最中のはずだ。
弄ばれた命をあざ笑いながら。
そしてその部屋の中には先客が居た。おそらくこのプレゼンに参加する予定の客だったのだろう、上等なスーツを着ている。
血と吐しゃ物で汚れず、血の気が普通の人間のものだったら、さぞ映えたかもしれない。
「(弾持ってるんだから始末して行きなさいよ)」
固定されたイスが障害物になってくれているおかげで、いちいち相手をしなくてもよかったのが不幸中の幸いだった。
しかし泣きっ面に蜂という言葉もある。部屋に鎮座しているカプセルには、彼女が望んだものは入っていなかった。司会者が読み上げるために用意したであろう資料も、肝心なものがいくつか抜け落ちており、とてもレベッカが満足する土産にはなりそうにもない。
安全に甘んじて後手に回った結果がコレだ。生きて帰る事を最優先に考えても、土産の一つも無いのはいただけない。
「(確か、この裏にモニター室が―――
!?)」
『シェリー、聞こえるか!?船が断崖に激突しそうだ!すぐ海に飛び降りろ!』
一縷の望を抱えて部屋から出ようとしたとき、耳に痛いアラームが天井から響いてきた。それに被さる形で、ブルースが事態を簡潔に報せた。よほど急いでいるのか、放送もそれ以上を語らず途絶えた。
「いい加減にしてよ、もう…」
シェリーは、ここへ来て何度目になるかわからない溜息を吐いた。
「ッ!」
音に反応して寝ていたゾンビが次々と起き上がり、デッキへ続く道は全てゾンビで溢れてしまっていた。そして誘われるかのように上へ上へと上る。
それに伴い、銃声とゴリラが地団太をするような地響きが大きくなった。それだけで何が起きているのか察したシェリーは足を速めた。
外へのドアを開けると、潮の香りに混じって血と腐臭が銃声と一緒に漂い、さらに船の先には見事な断崖絶壁があり、衝突まで数分もかかりそうに無かった。
シェリーだけならこのまま海へ身を投げ出すのは容易いが、戦っているのが誰なのか、その相手が何なのかぐらいは確かめる必要がある。
万が一でも、望みのモノがそこにあると願って。
「(わかってたけどね………)」
その願いが砕かれるのはこれで何度目だろうか。
関節がなさそうな手は確かに触手のような様相で、しかしそれ以外は彼女と似ても似つかない醜悪なタイラント。腐臭の原因らしい口の周りと背中の腐肉が、このタイラントの完成度を物語っている。
そして、ソレと戦うのは日本人とは程遠い白人の男。
あの二人がどちらの立場であっても、こんなに長く戦っているはずはない。弱点らしき背中の心臓のような器官を撃つのに四苦八苦など絶対にしない。
「(どこの誰か知らないけど………)」
シェリーは銃を構えた。化け物とはいえ元は人間だった相手に対する、たった一つの救済を実行するために。
生かしたまま逃げたら憂いになることも考慮して。
強烈な一撃を見舞われた臓器はあっけなく破裂した。痛みをほとんど感じない体のはずなのに、夥しい血を噴出するところを必死に押さえている姿は、人をやめてでも生きていたいという現われなのだろうか。
たった一発でタイラントは倒れた。プレゼンテーションで披露するにはあまりにも出来損なっている。
人間一人を相手にするのにもこの体たらくだ。強化コートを着た量産型タイラントのほうが何倍も脅威になる。今まで散々STARSが証明しているというのに、なぜ世界はそんなことも理解できないのか。
「シェリー!」
ブルースは感傷に浸っているシェリーの肩を掴んで、一緒に海へ飛び込んだ。
彼女が反転する視界で最後に見たのは、大きい岩壁に当たる寸前の客船だった。
「……………」