「はぁっ……はぁっ……」
 
 水に濡れるのも覚悟していた。海へ高い所から飛び降りるのも想定の範囲中だ。しかし、爆発の余波が水中を走るのは予想外だった。
 
 それも仕方が無かった。軽装の彼とは違い、シェリーは簡素とはいえパーティードレス。水中を泳ぎ続けるのに適していない服を着て、大人と同じ時間で潜水し続けられるはずが無い。
 
 月の光も乏しい海中でお互いを気にかける余裕もなく、このドサクサでブルースと逸れてしまったのだ。

「(別にいいけど………)」
 
 本当なら良くはないだろう。使える装備を持ち、エージェントとして単身乗り込むに足る技能はこの先を生き残るのに必要なものだ。シェリーの手にはそのどちらも無い。
 
「……………」

 考えても仕方が無い―――――助けてくれそうも無い『何か』に無いもの強請りをしていることに気付いたシェリーは、早々に頭を切り替えて最善の行動を取る事にした。
 
 一体ここはどこなのだろうか―――と。
 廃墟という足場がしっかりしない所を歩くには月明かりは暗すぎた。荒れ道を歩くよう設計されていない、室内用のシューズでは瓦礫に足を取られてフラつき、その拍子に折れ曲がった鉄材で軟な足を傷つける。
 こんなことならスニーカーでパーティーに出ればよかった――と、シェリーはジワジワ傷む足にツバを付けて探索を続ける。
 
 かすかに聞こえた銃声は極力無視して。





「そういうわけにもいきません……ってね」
 
 作戦は失敗。早々にレベッカへ連絡をつけ、この場から去る。それがシェリーにとって最良の選択だった。
 だが彼女は見てしまった。雲間から出た月光に照らされた貯水塔の表面に映る、赤と白の縞柄パラソルを。
 
 偶然か、それとも当然か。フェリーが向かった先はアンブレラが隠していた施設だった。ロックフォート島のように地図へ記載されない隠された島。アンブレラはこのような島を、いったい幾つ持っているというのだろうか。
 ここでシェリーはある偶然に気付く。かつてある青年は旅客機でテロに遭い、そのままアンブレラの施設に収容され、モルモットにされたと言っていた。
 そして彼女は客船でテロに遭い、こうしてアンブレラの施設の上に立っている。もしかしたらレセプションそのものが、ここへ連れてくる為の方便ではなかったのかと疑いもする。
 船の上で見たハンターやタイラントはそう思わせるだけの杜撰を極めていた。
 
「………なんでこんなことで喜ぶかなぁ…」
 
 そう言うシェリーの顔は奇妙な一致を喜んでいた。
 剥き出しの配管を伝って降りたところは、およそ廃墟には相応しくない様相を保っていた。地下だというのに吹いている生暖かい風は循環を意味し、空調が未だに動いていることを示している。
 月明かりも届かないのにしっかり足元が見えるのは、使い古された蛍光灯が役目を果たしているから。
 
 そしてなによりも――――。
 人の営みが無いはずの島に、つい先日まで人として暮らしていたと示顕するゾンビがいる。
 
「これをついてるって言うべきなのかなぁ……」
 
 使えるか否かはさておき、証拠の山という点では客船以上の収穫になるだろう。見た目は孤島だが、緊急用の通信設備ぐらいはあるはず。電気が生きていればレベッカに連絡を入れることも出来る。
 
 皮肉な話だが、シェリーはただの孤島ではないことに感謝するほか無かった。
 中を進んで行くと下水道に出た。水道の大きさはイコールで設備の大きさを表し、シェリーの立ち位置から見えている部分は全体の一画に過ぎないが、かつてクレアと通った警察署地下水道の一画より広く、そこから予測される施設の大きさは島全体に及んでも余りある。
 
 生態・機械の研究は共に綺麗な水を大量に必要とする。人が住んでいるのなら尚更に。そして今もどこからか流れ出てくる排水が、この島の現状を物語っていた。

「はぁ…………」
 
 シェリーは悪臭とは別の原因から来る頭痛を患い、盛大にため息を吐く。ここから先へ進むには、この下水道の中を通らなければならないからだ。
 
 本来なら別の区画へは陸続きの通路があるのだが、その道は崩落で塞がれている。道中に倒れているゾンビからして、ブルースがここを通ったのも間違いないだろう。
 彼はまだいい。男であるし、エージェントなら汚い所も平気だろう。なによりズボンは革製だった。
 ところがシェリーは素足に薄いドレス――――スカートだ。18になろうかという年頃の女に、こんなに臭く汚い水に素肌を晒して入浴しろと、この世の誰が言えるだろう。
 
 だがシェリーとて戦ってきた女の一人だ。臭いや汚穢ぐらいなら目を瞑るだけの度胸はある。
 問題は―――――立った今水底から起き上がったゾンビ。
 ブルースが撃ち漏らしたか、それとも時間差で起きたのか。
 
 ラクーンシティでも同様の現象はあった。水の中で酸素供給が出来ないにも関わらず平然と水の中から起き上がるゾンビ。t−ウィルスがどんな作用をしたにしても、もう少し節度を持った現象を起こしてもらいたいものである。
 
 コレと同じゾンビが濁水の中にどれだけ潜んでいるのか。いや、ゾンビだけならまだいい。汚水の中に生息する生物がt−ウィルスの影響でどんなモンスターに変貌しているのか。
 
 臭い、汚い、危険と、見事に揃った3Kを前に、シェリーが二の足を踏むのは仕方が無いことだった。

「(言っても仕方が無いけどさ………)」
 
 どうせ汚れるのなら――――と、シェリーはドレスの裾を破り、先程怪我をした箇所に鬱血しそうなぐらい厳重に巻きつけた。
 裾は膝の少し上まで短くなった程度だが、妙な破れ方をしてしまい、スリットが入った。それはむしろ動きやすいし、どうせ見せる相手もいないからと、シェリーは大して気にもせず、汚水の中に足を踏み入れた。
 
 入った瞬間、体中に鳥肌が立ったのは、決して水が冷たいだけではなかった。








 禍福は糾える縄の如しとはよく言ったもので、シェリーはようやく縁の無い幸福と出会った。
 ブルースの跡――――つまりゾンビや奇妙な形をしたモンスターの死骸を辿って着いた所に、使われた形跡がある通信設備があったのだ。
 
 それも発した先のログまで残して。

 『………重畳って言えばそうなんだけど……いい加減マンネリよね』
 
 事の首尾を洩らさず話した結果、ヘッドセットの向こうから返ってきたのはパートナーの溜息だった。ソレを吐きたいのはむしろ自分の方だ―――と、文句の一つでも言いたいところを、シェリーはグッと我慢した。
 
 あの日を経験した人間が、汚物に塗れるような不運に対して同情するわけがないからだ。何が起きようと、生きているだけマシであり、こういう事態に陥ることを覚悟して参加した手前もある。

「逆探は?」
『もう少し待って。ロンダリングされててソコまで行けないのよ』
 
 何処の誰が拾うかわからない電波に対策を施すのはよくあることだ。アンブレラの施設ならばむしろ無くてはならない処置だろう。
 同時に、これは芋づる式に関係者を洗い出すことが出来る欠点がある。海底施設強襲時にレベッカがわざわざデータを持ち帰ったのも、このロンダリング経路のプロトコルを得るためだ。
 
 非正規品の売買をする人間はアンブレラだけではない。銃、麻薬、人。禁止されたものを商いにする連中と関わっていることも、アンブレラを追い詰める切り札になる。

『代わりにさっき言ってた周波数の解析が終わってる。受信先はペンタゴンみたいよ。もう使えないけど』
 
 普段ならアンブレラとアメリカ政府が関わった証拠になると喜んでいた所だが、発信元の頼りない顔がそんな気分を霧散させる。
 
「(急いだほうがいいのかな)」
 
 事を確認されて連絡もされた。だとしたらアメリカはテロへの報復を行う…………つまり、武装部隊を送り込んでくる可能性が高い。
 そもそもスパイは情報を得るだけではなく、現地の事実確認のために派遣されることが多い。正当な理由で襲撃できる証拠を得るために。
 
 ブルースがその類である可能性は十分ある。こうして派遣元と連絡を取り合っているのがいい証拠だ。

『シェリー?シェリー!』
「え?あ…何?」
『逆探が終わったの。南太平洋から出てるんだけど…………衛星写真でもこんな所に島なんて写らないのに』
 
 衛星を使っても写真はデジタル化して地上に送信される。適当なアプリを搭載すればこの程度の隠蔽は容易い。アンブレラが隠したがる施設には、大抵使われている処置だ。
 
『こんな長距離を飛べるヘリなんかチャーターできないし……クルーザーを貸してくれるところ探さなきゃ』
「こっちも脱出用のボートかなにか探してみる」

 自社の幹部や筆頭研究主任を殺害する経緯から、冷酷で残虐なイメージを持つアンブレラだが、意外にどの施設にも脱出手段を用意している。
 カルロスがUBCSとして受けた任務はもっぱら要人救出だが、ラクーンシティでは一般市民の救助も含まれていた。広域バイオハザードの貴重なサンプル採取としての意味もあったかもしれないが、『そういうことをする』組織なのは違いない。
 
 シェリーには自分の父親の所為で脱出手段そのものがトラップになるという苦い経験があるものの、ラクーン、幹部養成所、ロックフォート等を省みると最低限の人道的処置は施されているは見て取れる。
 
 企業としては裏も表も壮絶なブラックだが。

『了解。すぐ向かうから、自爆装置はギリギリまで粘ってね』
「それは向こう次第でしょ」
 
 悪役のお約束はここにも設置されているはず。
 
 アンブレラの非合法施設を無傷で確保する――――そんな幸運に、自分はきっと縁が無いだろうと苦笑し、シェリーはそっと通信を切―――――
――――ろうとしたとき、それほど遠くない所から爆発が起きた。

「!?」
 
 それが原因だったのか、シェリーが使っていた通信設備が派手な火花を散らして爆発した。最初の爆破で尻餅をついていたおかげで、幸いにも難は逃れていた。
 
 代わりにレベッカと交信する手段が消えた。必要なことを全て交わしていたのは幸いだったが、有用な設備が使えなくなるのは、やはり痛い。
 
「…………電気を切る手間が省けたわ」
 
 負け惜しみのように呟いた溜息も、彼女の虚しさを痛いほど突いてくる。








 地下水路を抜けた先には巨大な通路があった。先の爆発の影響かどうかはわからないが、電灯の類がほとんど機能しておらず数メートル先も見えない。
 だが幸いながら、生き物の気配は感じなかった。ゾンビと見たことの無いハンターに似たミュータントの死体がアチコチに放置され、ブルースが通った跡を強調してくれている。たまに死後痙攣を起こして驚かせてくれる死体もあるのが、嬉しくないアフターサービスだった。
 それにしても―――――シェリーは設備の広さに呆れて感心する。島を丸々隠すこと、そして丸ごと研究施設に改造すること。どれも他の研究所と同等の手間を賭けて建設したことが伺える。
 
 アークレイ、ラクーンシティ、シーナ島、ロックフォート、南極、エジプト、アルプス、大西洋海底研究所。この他にも確認された研究所は数多くあり、建設や隠蔽に使う人材・資材にかかる費用は小国の国家予算を軽く凌駕する。
 そして極めつけは維持費だ。ラクーンのように資材が調達し易い立地ならともかく、ここや海底研究所はあきらかに『無理』をしているとしか思えない状況だ。
 無理を語るなら、立地条件よりも数の方に軍配が上がる。
 
 これだけの数の施設を建設していながら、その管理は杜撰の一言に尽きる。裏の研究の副産物が表に還元されるというプロセスでアンブレラが成り立っているのは明白。それなのに人員は最低限。ラクーンに至っては失敗作を処分する薬液さえ満足に供給されていなかったとされている。
 
 それがアンブレラにとってマイナスになるとわからない人員しかいないとでもいうのか。
 『歪』―――――違法という人道を外れた行いをするのはまだ納得できても、人の所業を逸脱した体制が、アンブレラの狂気を表していた。
 
 そしてこの施設も、その『歪』の一旦をかもし出している。
 
『どんな研究資材を必要とすれば、こんなに大きな搬入路になるのだろうか』
 
 シェリーは不安と糸口が見えない苛立ちを抱えながら、更に奥へ進んだ。
 シェリーがその部屋に入って最初に感じたのは強い不快感だった。
 水溜りのように並々と点在する血溜まりに、それから強く漂ってくる鉄と腐敗の匂い。極めつけに脳味噌を露出させて死に絶えている元人間らしきモンスター。
 
 その死体には多くの手術痕があり、何かしらの実験に使われていたことが伺える。
 つまりミュータントではなく、『BOW』だ。
 
「どこに行っても同じことばかり………」
 
 シェリーは死体に向けて小さく十字を切った。この人物がどんな人間で、どんな経緯でここに連れてこられたとしても、この程度の慰めを受ける資格ぐらいあってもいい。
 部屋の奥へ向かうと、貨物用の大きいエレベーターあった。ただし入り口は何かで抉じ開けられた形跡があり、その隙間からエレベーターを吊っているはずワイヤーがユラユラ揺れているのが見える。
 
 タイラントですらこんな嫌がらせを含めた頭脳プレイをすることはない。となれば十中八九モーフィアスという人物の仕業だろう。
 
「生きてればいいんだけど…………」
 
 ワイヤーが切れてもエレベーターには大抵落下防止の装置が設置されている。以前記述したアナログ処理と同じ理屈だ。
 運良く設置されていれば生きているだろう。そうでなければ―――――害獣駆除を引き継ぐ羽目になる。
 そんな御免こうむりたい事態も、まずは目先の問題を解決してから考えるべきだろう。
 
「どうやって下に降りよう………」
 
 縦穴を覗いてみれば、奥が点になって底が見えない。それをタラップも無しにどうやって降りろというのか。
 眼前で揺れるワイヤーが底まで届いていればラベリングが出来なくも無いが、途中で切れていればどうなることか。
 
 それでも最悪それで何とかするしかない――――と、何か使える物がないかと立ち上がった。








 服が擦り切れるのはないかと心配に悩まされながらも、長い縦穴をなんとか降りきったシェリーは、攣りそうな腕を休めるべく近くの部屋に入った。
 やはりそこもゾンビの残骸が放置されており、臓物の腐臭が休める雰囲気を壊してくれる。
 
 同時に、ブルースが生きている可能性の向上に、少なからず安堵を覚える。抑制できない手足だが、彼女にとっては無いよりマシな戦力なのだ。

「(ないよりマシ……ね)」
 
 ソレがふざけた強がりだと自覚している。銃の問題さえなければシェリーも率先して前へ進めたかもしれない。もしくは勇気を振り絞って探索すれば、警備員が持っていた銃ぐらい拝借できたかもしれない。
 
 そしてこれだけは―――と、はっきり後悔していることがあった。自分はブルースと一緒に行動するべきだったと。
 彼にとっては足手纏いにしかならないだろう。経験も技量も専門家として戦い抜いた男に及ぶはずが無く、銃が効かないと言うモーフィアスだったミュータントから逃れられるかどうかも怪しい。
 
 だが目的のモノは、ここまで後手に回らなければ、アンブレラに関係する書類やデータは手に入れられたはずだ。
 
 STARSに協力しなかったというだけで、ここまで嫌悪しなければ、こんなところでジッとしていることもなかったのだろうか。
 シェリーはそっと溜息を吐いた。知らない施設に一人で、何かから逃げているという状況はあの頃と似ている。腐った人間の臭い、下水の臭い、どこに居るかもわからないモンスターに怯え、こうして隠れる。その忌まわしい思い出から、何一つ変わっていない自分が情けなく――――
 
「…………はぁ」
 
――――やはり、そっと溜息を吐いた。