一ヵ月後――――テキサス大学付属メモリアル・ハーマン病院キャンパス内

 大学に通った経験がある者なら、キャンパス内が非常に緩いセキリュティだと感じたことはあるだろう。特にIDカードを発行しない大学ではほぼフリーパスと言っても良いぐらいである。
 
 大学というものはどこも似たようなものだが、一流と呼ばれる場所はなかなかそう上手くいかない。特に研究室を設ける棟等がある場合、当然ながら厳重に警備されている。大学とはいえ、していることは企業や組織とあまり大差がないのだ。

 そんなことを意に介さず堂々と潜入しているのは、少し大人っぽくコーディネイトされた出で立ちのシェリーだった。1人で行動するのに若干の抵抗を感じるものの、流石にエルでは見た目を誤魔化せず、聖司はあらゆる面で目立ちすぎるため、それぞれがやるべきことをやるという形に落ち着いて今に至る。
 
 さて、STARSではそこそこ活躍できるフットワークを見せるシェリーだが、今度は少し勝手が違う。仲間がいないことはもちろんだが、この作戦は殲滅や掌握、確保の類ではないのだ。
 
 言ってみればスニーキング、もしくはハッカーの類になる。そのため全てを秘密裏に行なわなければならず、相手が一般人のため一切の被害も出してはならない。

 しかしノウハウがまったく役立たないわけでもなく、アンブレラと比べればレベルが低いセキュリティなどシェリーにとってなんら障害にはならなかった。
 
 隠れるのに適している植え込みや建物の影、建て増しを繰り返した所為でカバーしきれてない監視カメラ、止めに夜間警備員以外ほとんど人がいなくなる施設内部。
 
「(何より変なのが絶対出てこないし!)」
 
 拳銃で襲ってくる警官や警備員を相手にしてでも関わりたくないものが出ないのは、調査の足取りを軽くするのに十分だった。

 そして、シェリーはそろそろ良いだろうと見切りを付けた。
 
 一ヶ月もキャンパス内をうろうろしていてはいい加減誰かに顔を覚えられてもおかしくなく、メモ帳に記載する事項がほとんどなくなってきた故の判断である。
 
 そろそろATMを壊さなければならなくなりそうだというのは、あまり関係ない。
 
 「(大学の中にもATMがあったしついでに………)」
 
 無いったらない。



「丑三つ時って日本独特の時間があるんだけど、何時の事かわかる?」
「私が知るわけないでしょ」
 
 夜の最も人が少なくなる時間、身の丈の倍以上ある柵を越え、監視カメラの死角を通り抜け、電子基盤をクラックして研究棟内に入り、ようやく下調べの時に目を付けていたモノに出会った。
 
『コンピュータ断層撮影装置』
 
 俗に言うCTスキャンである。コレの説明はするまでもないだろう。

 シェリーは疑問の一つに自分の体を挙げていた。話に聞いている限りでは『G』ウィルス――――を持つ胚に侵され、クレアの尽力によってワクチンを接種できた……で終わっているが、先日の襲撃によってその話もだいぶ怪しくなっている。
 
 そこで一度全体的に調べて見ようというのが今回の奇行の正体だった。
 
「実際の所、市販の機械で調べられるもんか?」
「そういうこと言ってたらキリがありませんよ。どんなもので高性能はイコール庶民の敵じゃないですか」

 だったらあるものでやりくりするしかない―――――レジスタンスもどきの時代からそうやって来たシェリーにとって今更だった。
 
 準備の大半を早々に終えたシェリーは検査の準備に取り掛かった。専用の検診衣を纏い、ヨードと呼ばれる透過の写りを良くする造影剤を打ち、いざ寝台へ横たわると、
 
「お願い」
 
 エルに合図を送った。孤島の海底研究所では機械を操作しきれずにシェリーの手を借りた彼女だが、機械に疎いのではなく使い方を知らなかったための措置であって、教えれば難なく扱えるようになっている。

 特に今回はほとんど自動化されているため指一本しか使うことが無く、タイミングに合わせてボタンを押すだけである。
 
 少し時間を置いて装置が動き出し、真夜中にあまりよろしくない音を立てながら、シェリーがガントリーの中に収納されていく。一度のスキャンが終わると自ら台座を微調整してもう一度スキャン。
何度か同じことを10分も繰り返して作業は終わり、数百枚ものデータがコンピュータの中に作成され、シェリーはそれを一般的な画像ファイルに変換してから、自分のノートPCに移した。

「セイジさんもやります?」
「首の後ろに変なのが写るからいいわ」
 
 言った途端、エルが自前の触手で聖司の顔をウネウネと乱暴に撫で回す。『変なの』という部分に何か思うところがあったのだろう。
 
 実際彼の体を見てもしょうがない、これは自分のための事だったのだから。
 それよりも早くキャンパスから出たいのが本音のため、シェリーも話を深くせず帰り支度を始めた。

 ブツン――――――そのとき鳴った音は、シェリーの目の前を真っ暗にした。
 
「!?」
 
 だが意識はあった。つまり電気が消えただけなのだが、その状況そのものがありえないとシェリーは知っている。
 
 ほとんど人が居ない建物で、たかが一部屋分の電気を使った程度で停電などありえないのだから。
 
「今の音何だ?」
「セイジさん、周りに誰か居ますか!?」

 明暗を感知できない聖司は状況を理解出来なかったが、シェリーの声色でおおよそ把握して、すぐに出来ることで理解に努める。
 
「………………誰も居ない、少なくともこの建物には俺達だけだ」
 
 それも時間の問題だろう―――――こういう状況になって何も起きずに終わると思えるほど、シェリーは能天気ではない。
 目的はすでに達成しているのだ、長居は無用である。
 
「行きましょう!」
 
 廊下に出ると、遠くの夜景は様々な明かりが混ざり合ってわずかに明るかった。なのにキャンパス内だけは外灯も点いておらず、非常灯の薄い緑色だけがポツポツと見えているだけだった。

「あ」
 
 と、声を出したのは見えない目でジッと足元を見ている聖司だった。
 
「今なんか引っかかった」
 
 そう言うものの、月明かりで幾分マシな視界には聖司の足に何かがある事実は無い。つまり触感的なものではなく別の感覚だと窺い知れるのだが、聖司が頼っている感覚など一つしかなかった。

 そして『何か』と言ったのは、『得体の知れないモノ』であり、当然人間ではないという答えに行き着く。もしも警備員らしき人間がこの停電に慌てているのなら、聖司はソレをシェリーに伝えただろう。しかし彼は誰も居ないと言った上で何かが居ると言った。
 
 変なのが出てこないと思ったシェリーだが、向こうからやってることもあると思い知らされた。
 
 どうしよう?――――――聖司は何も言わない。この場の指揮官は間違いなくシェリーなのだから、やるべきことをやり終えている彼が何かを提案することはない。

 バレているのなら仕方が無い、目的は達成しているのだからわざわざ戦う必要もない。となれば出来ることは自ずと決まる。
 
「逃げましょう」
 
 それ以外に手が無いのが実の所だが、自身も含めた全員が逃げるための算段や予想を考えるために必要な鶴の一声になる。
 
「カメラに映っても構いません、最短ルートを通って走り抜けます」
「途中で襲われたら?」
「高度な柔軟性を維持しつつ状況から判断して的確な対処をしてください」
 
 つまりは振り切るか振り払うの二つしかするなということである。そしてソレは逃げれきれれば勝つという状況で正しい方法だった。

 そうして三人は月明かりだけを頼りに出口まで走った。目が見えない聖司が居る分全速力も出せないもどかしい移動だったが、幸運にも彼等の邪魔をするモノは現れなかった。出口に横付けしていたタクシーに乗って逃げるまで、邪魔は一切なかった。



「どうですか?」
「移動しながらじゃちょっとな………それに、夜なのに人が居過ぎだ」

 真夜中の車道は街頭のおかげで暗くも明るく、見通しもそれなりに良い。疎らに走る車、カートをゆったり押して横断する浮浪者、やんちゃをしている若い集団等、寝静まる時間にしては少々小煩い。
 
 そんな中、車を走らせるシェリーは頻繁にバックミラーを確認していた。大学を出てから何もなく順調に進んでいるにも関わらず、彼女の心境は少しも落ち着こうとしない。

 逃げ切れたと思えるほど楽観的ではないが、こんな街中で事を起こせるだろうかと。少なくともアプローチをしてそのまま何もしない相手ではないはずなのだ。

「このまま郊外に出ればはっきりするんですが………」
「………こっちが誘い出したつもりでいたら、実はこっちが―――なんてことには?」

 十分あり得る推測である。そもそも2人の居場所を知っているということは、その先の一手などいくらでも張り巡らせられる。人が居ようが、下水道に逃げようが、迎え撃とうが、犠牲を考えない相手にはどんな手段も叩き伏せられるだろう。

 しかし全ては憶測。このままドライブを続ければいずれガソリンが尽きるだろう。誰にでも平等な時間も、今はシェリー達の敵でしかなかった。
 彼女たちは否応なしに、答えを出さなければならない。

「人がいない所へ行きましょう。誰だろうと、巻き込むわけにいきません」

 そして、悪人にはなれないシェリーが取れる手段も、そう多くはなかった。



 街を抜け、山間の暗い道に入ると擦れ違う車も無くなってくる。それだけ車の通りが少ないにも関わらず、シェリー達が乗っているタクシーを、少し離れたところから着いてくる車があった。

「似たようなことが前にもあったよーな………」

 そのときは穏便に終わった逢瀬だったが、聖司の呟きには、今度はそうもいかないだろうという諦観が含まれていた。

 お互い付かず離れずという距離で、ちょうど聖司の探察に引っかからない。シェリーが速度に緩急をつけてもそうなのだから、よほど2人の事情に詳しいのだろう。

「決まりですね。どうしましょう?」
「どうするも………若い男女が人気のない所に来たらやることは決まってるだろ?」

 そう言って聖司はチャックを開けて銃を取り出した。もちろん股間の粗末なモノではなく、以前拝借したショットガンである。ソレを暇そうにしている相方に渡した。

「人狩り行こうぜ」
「ホントに人だったらいいんですけど………あ、ここ」

 街灯もほとんど無い山道の途中に捨てられた敷地があった。元は工場かなにかだったのか、多種多様の粗大ゴミがそのまま放置されており、鉄骨の山や積まれたタイヤは身を隠す障害物に打って付けで、さらに敷地の周りは探索を阻害できそうな森林で囲まれている。

 出入口が一か所しかないため、誘い込めば車で逃げることができなくなることを除けば、絶好のシチュエーションだった。その除いた部分が致命的であるのだが。

 それでも念のためにと、シェリーはハンドルとブレーキを駆使して入口に車の先端を向けた。ヘッドライトで相手を照らすのもあるが、いざとなればそのまま突っ込ませることもできるからだ。いつでも発進できるようにエンジンを掛けたまま、ドアを盾にしてこれ見よがしに銃を構え――――しばらくして、来なくていい車が一台、シェリー達の前で止まった。

 そして以前と同じように、車から出てきたのは一人だ。ただし、そのシルエットから伺える相手の服装は、少し長めのスカートを穿いている。特殊な性癖を持っているのでなければ、相手は女性だった。

「一応………初めましてと言っておこう。こうやって会えたことを、心から嬉しく思う」

 その言葉が示す通り、女の声色は穏やかだった。もしかしたら緊張さえしていないかもしれない。対照的にシェリーと聖司は―――まったく別のことで―――思わぬ事態に戸惑っていた。

「セオ・D・スペンサー………」

 どのメディアにも姿を現さず、裁判の出頭にも応じず、アンブレラのパンフレットに載ってある顔写真だけが、彼女の存在の証明だった。その写真より若干成長していても、白く長い髪も、同じように白い肌も変わっていない。

 数年間も幽霊のごとく実体が掴めない女が、なんの目的でここにいるのか。

 シェリーはその答えを期待して聖司に目線を送る。こういう時にこそ彼の力が発揮されると信じて。彼にはもう彼女の視線を受け取る手段は無いが、元々内緒話をするつもりだったのか、すぐに返事を返してきた。

「(コイツ………心が読めねぇ)」

 しかしシェリーが欲しかった答えで返してくれはしなかった。タイミング悪く調子が悪いとか理由があれば慰めになったかもしれないが、2人の間での会話に支障が無い以上、その可能性も無い。

 しかし聖司の力が役に立たないケースはなかったわけではない。シェリーはそのことを踏まえて聞き返そうとするが、先の一言の意味が彼女を止めた。

 今まで数人だけ聖司のテレパシーを『誤魔化した』ことはあっても、『読めない』と言ったのは彼女が初めてだった。

 何も考えていない、あるいは本当の意味で『脳無し』でなければありえない。仮にNEシリーズが彼女の正体だとしても、彼はBOWやゾンビでさえ感知できたというのに。

「その様子だと、どうやら私のプライバシーは守られたようだな。結構結構」

 頻繁に視線を送り合い、そこから漏れるわずかな反応。想定外の事態に内心狼狽している二人に対し、セオは悪戯が成功したように軽く笑う。

 その言動から、やはり聖司の事情を把握しているのは窺い知れる、と同時にある疑念がシェリーの頭に浮かんだ。

 今まで異常と言えるほど自身に関する情報を出さなかった女が、テレパシーという使える男の前に現れるとうリスクを犯すだろうか。あるいは知られても彼女にとって痛手にならないことなのか。どちらにしろSTARSで行った、セオという女のプロファイリングとは大きく異なる。

 そして彼女の言動は、あらかじめ準備してきて、ソレが効果を発揮したような印象を受けないだろうか。

「……なにが目的?」

 仕方なくシェリーは先手を取って自ら質問する。どのみち会話はしなければならず、それならイニシアティブを握った方が都合がいい。

「セオ・ダニエル・スペンサー」

 しかし返ってきたのは、シェリーが予想していたモノとは違う、答えになっていない彼女の自己紹介だった。一応とばかりに聖司に伺いをたててみても、やはり彼女の意図を探るヒントは出てこない。

「ミドルネームは馴染みがないかな? ダニエルは父の名で、この場合はスペンサー家のダニエルの娘のセオ、という意味になる。本当ならミドルネームは母親や洗礼の名を付けるのが通例なんだが、どちらも無いから、戸籍上の父親を使った。………セオという名も好きじゃなくて――――」
「私は目的を聞いてるの!」

 段々愚痴になりそうなところで、シェリーが声を強めてもう一度質問した。まだ戯言を言うつもりなら、本当に撃つという仕草も含めて。

「新鮮かなと思ってね。初対面の人の名前も、何を考えてるかもわからない相手との会話も、初めてだろう?」

 それが誰に向けられている言葉なのはハッキリしていた。ミドルネームの説明も、アメリカ人のシェリーに馴染みが無いということも無い。彼女の関心が聖司に向けられているいい証拠だ。

 やはり目的は『彼』なのだ。

「目的と言える立派なものは無い。ただの確認と……ま、あわよくば回収できれば、と」

 やっぱりこの女も同類か――――スペンサーレイン号で逃したモルモットのことを指したであろう発言に、シェリーも聖司も嫌な顔をする。この手の人間に会ってロクなことなど一度もない。

「そういう目で見てくれるな。昔からそういう目も嫌いだ」
「そういう目で見られるようなことをしてきたからでしょ。自業自得よ」

 セオの目的が敵と見なすに足ると知るや、シェリーの心情から遠慮が消えた。膠着状態を打破するために、相手の出方を伺う意図も交えての挑発じみた口調で応えるが―――。

「………どちらかと言えば君達と同じで、されてきた方だよ。だから私も、君達もこんな体をしている」

 反発でも開き直りでもない、予想しなかった反応を見せた。モルモットにされたとは言え、聖司が今の体になったのはそれ以前の事件で起きた偶然であり、シェリーに至っては実親からそのような扱いを受けたことなどなく、誰かに何かをされたという覚えは無い。

 彼女の発言はまるで見当違いの見解にしか聞こえなかった。

「聞かされていない?………当然か。アレはオズウェルが独断で一部の研究者にのみ行わせた、お遊びのようなものだったから」

 アンブレラの創始者の名前が出て、その人物とわずかながら縁があるシェリーが色めき立つ。彼女の父が破滅する切っ掛けになった『G』ウィルスの開発許可を出した張本人であり、今でもSTARSが指名手配している最重要人物である。

「私と一緒に来るのなら教えてもいいぞ? あまり長く外に居たくないんだ」

 その提案にシェリーは迷った。心情では断る以外の選択は無いが、得られるかもしれない情報は魅力がありすぎる。オズウェルに関すること、セオの潜伏先、彼女が持っている秘密は冒険をするだけの価値があった。

「お断りだ」

 シェリーの葛藤を他所に、聖司が先に答えを出した。

「少なくとも、これからずっと追われ続けるよりマシな生活を約束するんだが」
「追ってきた一人のクセによく言うわ。どーせ嫌だっつったって腕づくで連れてくつもりなんだろ?」

 無理矢理連れて行くの面倒だから最初は交渉する。今まで大勢の人の心を読んだ彼なりに、ある種のテンプレートが出来上がっていた。心が読めなくとも、この場合ならこういう考えに至っているだろうと、予想できる程度には。

「出自も気にならんか」
「今更興味もねーや。聞いて幸せになれるとも思えねーしな」

 そんなモノか――――聖司の返答を聞いて、セオはそういう答えが出たことになんの感慨も見せなかった。おそらく彼女にとってどちらでもよかったのだろう。

「共感してくれれば、連れて行くのも楽だったんだがな………」

 そら来た――――シェリーと聖司は構えた。談判破裂して暴力が出る幕という展開など古今東西、ありふれたプロセスである。

 とは言え、次の手を先読みできない状況では分が悪く、周囲全体を警戒しながら、いつでもセオに照準を合わせる。

 そうすれば周りに誰が居ようと出方は限られ、聖司は素早く反応できなくとも優秀なガードマンが付いており、例えそっちを狙おうものなら、その瞬間シェリーがセオの頭に風穴が空ける。

 覚悟さえできていれば、あとは迎え撃つだけ。シェリーはその瞬間を複雑な気持ちで待った。

「丁寧にやれ」

 合図が来た。どこからだ。音も臭いも目も、これでもかと極限まで集中して――――何かの発射音を右耳が捉えた、そのコンマ一秒後にシェリーの意識は途絶えた。

 シェリーは車を入口側に向けてから運転席を降りて、ドアを盾に構えていた。アメリカで使われる車は当然左ハンドルであり、助手席がある右側にいたのは間違いなく仲間のはずだった。

「………何をやった?」

 弾を撃ったばかりの銃口から燻(くゆ)る硝煙が聖司の鼻につく。左耳の耳鳴りが発砲音の位置を正確に教えてくれる。

「なんで………左に――――シェリーに撃ちやがった!?」

 シェリーの右側には、聖司と彼女が。

「答えろ――――『ユウ』!!」
「ワリィな聖司、これもエルの意思なんだよ」

 エルではないエルの姿をした寄生生物が居たのだ。



 言葉を発さず意思疎通ができる――――その利便性は今更語ることでもない。ならば逆の不便はあるだろうか。

 その一つが当事者同士だけの完結であろう。もし今までの会話で聖司が彼女のことを一度でも『ユウ』と呼んでいたら、意思を持ったネメシスシリーズが複数居ることを念頭に、シェリーもここまで『ユウ』という生き物を信用しなかっただろう。

 共通の話題をしていれば割って入り、会話に華を咲かせることもできたはずだ。そこから生まれる友情も、もしかしたらあったかもしれない。エルと勘違いしてほとんど話をしなかったシェリーを誰が責められようか。

「どこでなにやってるかわからねぇとか言いやがって………アイツはこの女とグルになったのか!」
「消極的協力関係だとさ。『俺達』も同意見なんだ、このまま連れて行く」

 ユウが聖司の腕を取って無理矢理歩かせようとするが、最大限の嫌悪を込めて振り払われた。

「疑わないでくれ。俺達はみんな、アンタのためにやってる。それだけは絶対だ」
「悪質な宗教かセールスか? 俺を無視して勝手なこと言ってんじゃねぇ!」

 気絶させるなり手足を傷つけるなり、簡単に連れて行く方法も、実行できる力もありながら、危害を加えないようにしているのは、彼女が言っていることの信憑性を表していた。

 しかし裏切られたという気持ちが大きいのか、聖司はいっさい取りあおうとしない。

「やめろ。ソレじゃ連れて行っても役に立たん」

 ソレを横から、セオが止めに入った。

「こうなると諦めていたはずだ。さっさとしろ」

 まごまごしているように見えたのか、セオがやや強い語気で命令した。そういう関係が構築されているらしく、ユウは一拍だけ………溜息と上司を睨む一秒だけ無駄に使って、聖司の服を掴んでいた手を離した。

 ようやく諦めたかと、確認をするためにユウに対して意識を向けた、その瞬間――――ブチリと、後ろ首からの音と久しく縁が無かった激痛が走った。

 言葉にならないと表せる、あるいは本当に口を動かせないのか、溢れ出る血に押されるように地面に倒れ、ままならない呼吸と一緒に痙攣が始まった。

「NEシリーズ………特にコイツ等に寄生された場合、宿主の脊椎に自身の神経を繋ぎ、一時的に行動を奪い、時間が経つと宿主のDNAと同化。そのまま癒着し、脳をコピーして効率よく宿主を操る。そう、コレはお前の脳だよ」

 セオの手にはユウから渡されたエルの名残が握られている。もう彼女の意思が希薄しているソレは、聖司の肉ごと毟り取られていた。神経をズタズタにされ、地獄のような痛みを味わって、それでも命があるのは幸か不幸か。

「用事はこれで終わりだ。あとはどこかで、怪我を治しながらゆっくり待っていろ。同じ計画から生まれた誼で、少しは住みやすい世界にしてやる」
「ま…待て……!」

 搾り出すように静止を訴えても、2人は意に介さなかった。一瞬だけ、ユウが名残惜しそうに視線を向けても、手を差し伸べないまま車に乗って、去った。

 助けを必要として、訴え、惜しみなく支えてくれると信じた相手の、明確な拒絶と相まって、聖司は心身両方の痛みを耐え、受け入れるためにしばし蹲った。

 完全な暗闇の中で深夜の山道に時間を知らせるモノなど無く、10分か1時間かという曖昧な休憩で、それでもなんとか身体を動かせる程度には回復した聖司は、真っ先にシェリーの元へ這いずっていく。

 自分がどう倒れたかもわからないため、忙しなく回りを確認しながら、車の前から遠回りして反対側についた。

 最後にシェリーが立っていたであろう位置を、泥交じりの砂利を撫でるように探し、ついに車と雑草以外の何かに触れた。爪先を空へ向けているスニーカーだ。

 それから足、膝、太股とまさぐる様にシェリーの身体を順に這っていく。途中で彼女の胸に触れても性的な興奮など、今の聖司には無縁だった。

 何処を撃たれたのか。倒れてまだ間もない身体は温かく、それだけを希望にしていたが、首辺りに触れるとベタついた何かに触れる。心臓の辺りに無かった外傷が半ば確信していた予想を現実にしつつある。

 聖司は両手でゆっくりシェリーの顔の形を確かめていく。顎と唇、鼻と頬、目と額。

 そこまできて左手だけが空を掴んだ。シェリーの右側の目から上が消えていた。

 ドサッとシェリーの横に尻餅をついたその瞬間、あらゆる感情が聖司を襲う。失った悲しみ、守れなかった無念、蘇る裏切りへの怒り、自身に向けた劣等感。

 そして、こうするべきではなかったという後悔。いつかどこかでクレアかSTARSの誰かと会わせることも考えて、ソレが叶わなくなったとどう伝えればいいのか。

 今の聖司には先のことなど考えられず、ただただ感情に打ちひしがれることしかできなかった。


 ニチャリと音がした。


 最初は気に留めるほどの余裕などなく、聞き逃していたその音は、自然的と呼ぶにはほど遠い背徳的で継続的に鳴り続け、流石に不自然を感じた聖司は耳を澄ます。

 ソレは彼の横から鳴っていた。音は顔をゆっくり横に向ける度に明確になっていく。

「何が………」

 自身の身から鳴っているのなら、彼でもある程度予想はできた。だがシェリーから、となれば話は違う。

 シェリーから『G』の話しを聞いていても、学者でもなければ実物を見た経験もない聖司では、彼女に何が起きているかなど知りようもない。ましてや『死』をきっかけにして起こっている『変異』など、ミュータントやBOWの例を参考にしたくもないだろう。

 何も出来ないたった一人の身で、未知を見守ることもできない聖司は、ただただ怯えながら結末を待つしかなかった。



 どれだけ経ったかもわからなくとも、長いと錯覚するに足る時間はあった。聞き難い音も消え、元の静寂が辺りに広がっている。

 いったいどうなったのだろうか――――いつの間にか車にもたれ掛かっていた聖司が、もう一度彼女の容態を確認しようと起き上がったとき。

「ケフッ……」

 聞き間違いでなければ、変異した生き物の鳴き声でなければ、それは人間の咳のように聞こえた。それは断続的に続いて、その都度砂利や草が僅かに鳴り、生命活動の一環として行われているようだ。

 シェリーは生きていた。どのようなプロセスが行われたのか聖司には見えなかったが、頭をショットガンで撃たれてなお生き返ったのだ。

「ケフッ……ケホンッ」

 蘇生が終わった証拠だろうか、一際大きな咳の後、荒いながらも心身を整えるための呼吸をし始めた。

「シェリー……大丈夫…なのか?」
「セイジ…さん? 大丈夫ってなんですか? 私達これから学校に忍び込むはずじゃ…」

 それは数時間前のことだ。さっきまで脳の一部をなくしていたのだ、記憶が統合されていなくて当然だった。意識が戻ったばかりで混濁している可能性もある。

 なら時間が経てば周りの状況も見えてくるだろう。聖司には見えないが、シェリーの顔が徐々に蒼白になっていく。血だらけの体に、周りには自らの肉片が飛び散っているのだから、今までの経緯を考えれば自らの身に起きたことを想像するのに、聡明だからこそ難しくもない。

 シェリーの中で事実が構築されていく度、整ったはずの呼吸が荒くなっていく。半ば諦めていても、希望が失われていく度に鼓動が跳ね上がる。

 ふと、泳がせていた視線が地面に向いたとき、偶然凶弾に当たらなかった左目がシェリーの視線と重なった。その白人特有の青い綺麗な目が作り物でも別人の物でもなく、かつての持ち主が自分であるという確信が生まれた時―――。

「イヤァァァァ!!」

 シェリーの中のなにもかもが弾けた。尋常ではない悲鳴が辺りに響き、聖司もようやく我に返る。

「シェリー、落ち着け! シェリー!!」
「イヤ! 来ないで、触らないで!」

 錯乱している。無理もないとわかっていても、聖司は止めずにいられなかった。シェリーの心中を占めている感情は、さっきまでの彼と似ていたからだ。

 本当に嫌なら健常になった身の彼女にとって逃げることなど容易いが、再生した頭が上手く機能しないのか、彼女の体が支配主の心情を明確にくみ取っているのか、尻餅をついたまま後ずさるだけだ。

 やがて聖司の手がシェリーの足に届く。声がする方へ律義に進めば、そこに彼女がいた。

 逃がしまいと、力が入らない手でシェリーの手を、体を掴む。

「だって、『G』は『T』の抗体で……私は!」
「違う! 俺達は……俺達は大丈夫なんだ!」

 聖司は掌の血を見せ、お前の血だ―――と言う。触れ合うことができるという何の根拠もない証拠を振りかざして、それだけ傍にいることを望んでいると強く訴えた。

 ソレ等を見せられても彼女を止めるのに足りない。無くしたものが大きすぎて、ぽっかり空いた心を埋めるには。

「なら………証明して」

 今度はシェリーが聖司を逃がしまいと掴まえた。

 ソレは欲しいモノではない。お互いに無くしたモノが似ていて、ソレは彼等が生きていくために必要なモノであったはずなのに。

 元々少なからず想っていた。似ていた所が分かり合える間柄になる程度には。

 二人はゆっくりと唇を重ねた。月も灯りもない暗く寒い廃屋で、血と硝煙の匂いに包まれながら、お互いの肌が持つ熱だけが、二人をこの世界に繋ぎとめた。