真・三国無双異伝『修羅の世』 第一話 「神農」



西暦184年(中平元年)。桃の花舞い散る春のこの季節に中国大陸では大きな事件が起ころうとしていた。

この時期、国を治めるはずの朝廷では権力争いによる腐敗が目立ち始め、それに反映するかのよう
に中国全土では増税による飢餓や反乱が後を絶たなかった。

その折、太平道と呼ばれる教団が世界各地で蜂起を起こした。彼等は教徒の証として額に黄色い
布を巻いていたことから『黄布党』と呼ばれ、張角という男を教祖として中原を闊歩していく。

これに対抗するため朝廷は討伐軍を編成するべく各地で義兵を募った。

魏を築く好雄「曹操」

江東の虎と呼ばれた「孫堅」

中山靖王・劉勝の末裔と称す「劉備」

後の三国争乱の中心にいる人物達が集まった瞬間だった。

だが物語りはここより少し未来(さき)を語ることになる。

時は初平2年(西暦191)。洛陽の東で呂布率いる董卓軍と袁紹を盟友とする反董卓連合が衝 突していた頃、別の場所ではもう一つの物語が動き出していた。


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場所は洛陽から南に離れたところにある長沙。ここはさきの黄布族討伐により功績をあげた孫堅が 太守として治める国である。

「若!!どこに居られますか!!」

一人の初老の男が城内を駆け回る。何時間もそうしていたのか、全身汗だくで声も掠れ気味だった
。そんな男の前に一人の文官が現れる。こっちも負けず劣らず疲弊している様子だった。

「どうじゃ……見つかったか?……ゼイゼイ」
「先ほど馬屋を確認したところ……2頭ほど足りない様子でした……はぁはぁ」
「2頭!?もしや今度は姫君も連れて行ったというのか!?」
「……おそらくは」
「えーい、すぐに近隣の村へ使いを出させろ!捕縛用の網を使っても構わん!」

文官は返事をしてすぐにその場を離れた。

「……はぁ…………。弟君はあんなにおとなしいというのに……」

あまりにも性格の違う兄(+妹)と弟を思い浮かべて男はそっと溜息をついた。そして自身も探索のために馬屋へ駆ける。


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同時刻。何万という人が歩き、自然と出来た林道を2頭の馬が蹄音(ていおん)高々に走っていた。
騎手は16歳になったばかりの、後の小覇王「孫 伯符」こと「孫策」。
そしてもう一人はまだ幼い容貌の、後の弓腰姫と呼ばれる「孫尚香」。

「きゃーー早い早いーー!」
「あんまトバすなよ尚香!怪我なんかしたら俺がジィに怒られんだからよ!」

それでも2人は心底楽しそうに馬を走らせた。

「それでぇ!?今日はどこに行くのぉ!?」
「どこだっていいだろう!楽しけりゃあ!」
「さーんせーー!」

2人はどこまでも続く道をただ走っていった。途中、道から少し離れたところに湖があり、2人はそこで休憩を取ることにした。

「兄さんっていつもこんなことしてんの?」

馬に水を飲ませている尚香が尋ねる。

「まぁな。家(宮)に居たってジィが煩ぇし、こうやって外を見たほうが何倍も楽しいぜ。ほら」
「あ、ありがと」

孫策は荷物からお結びの入った包みを一つ尚香に渡す。

「でもジィが言ってたよ?兄さんは長男だから、いつか父様の跡を継がなくちゃいけないって……ってすっぱ!!」

一口含んだ尚香が盛大に噴出す。

「塩の量間違えたか……」
「……もしかして毒味?」


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一休みも終え、そろそろ別の場所に行こうと尚香が提案し、孫策も仕方なしとして支度を始めた。

「よいしょ……う〜〜ん!」

まだ背が低いため必死になって馬の背に乗ろうとする尚香。

「ほら、ジッとしてろ」

孫策が尚香を後ろから持ち上げて馬の背に乗せる。そして自信も馬に乗るために尚香から目を離した。

瞬間、尚香の乗っている馬の足元に一匹の子狸が走りすぎた。それに驚いた馬は尚香を乗せたまま林道を走っていった。

「きゃーー!!」
「尚香!?」

事態に気付いた孫策は急いで馬に跨り、尚香の後を追った。
だが体重の差があるためなかなか2人の距離は縮まらなかった。

「尚香!馬を落ち着かせろ!」

叫んでも尚香は行動に移そうとしなかった。どうやらしがみついているだけで精一杯らしい。

馬と言う生き物は面白いもので、走るという概念は他の欲求に勝ると言われている。無論平常時ならおとなしいのだが、さっきのように些細なことで興奮状態に陥ることもある。そうなると走って逃げるという行動以外取らなくなる。

走ることによる脳内アドレナリンの大量分泌、それに伴う思考の衰退。それにより自分の行動を省みないこともしばしばある。谷底に落ちたり過労で心不全を起こして死ぬこともある。
ましてやここは林道。大量の木々が並ぶこの場所では何が起こるかわからない。

このまま馬が疲れて止まるのを待つ余裕はなかった。
そうやって対策を考えていた矢先、2人の前方に一人の旅人が見え始める。

しかも尚香の乗っている馬はその旅人に向かって走り始めた。
さすがにヤバイと感じた孫策は自分の馬を急がせるが以前として距離は縮まらない。

「危ねー!避けろーー!!」


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旅人は2つの蹄音を聞いた。

「(確かこの辺りは孫堅とかいう太守の城があったな。急いでるようだし伝達かなにかか?)」

さして気にすることでもなかったので男はそのまま歩みを止めなかった。

「危ねー!避けろーー!!」
「え?」

振り向いた瞬間、男は大いに驚いた。年は16……自分と同じぐらいの青年の前にとても幼い子供が暴れる馬にしがみついているのだから無理もないだろう。

しかもその馬が自分に向かってきているのなら尚更だ。

一瞬避けようかとも考えたが、もし避けると馬は林に突っ込むことになる。そうなると少女がどうなるか分かったものではない。
男は意を決して馬と向き合った。

「馬鹿!逃げろ!」

青年が叫ぶが男は聞かず大きく息を吸い込んだ。
そして男と馬が衝突する瞬間。

「わ!!!!!」

気合を乗せた騒音に近い声を発する。馬は前足を跳ね上げて一瞬だけ静止し、男はその隙に手綱を取って馬を落ち着かせる。

「はーい、どうどうどうどう」

疲れも手伝ってか、馬はすぐにおとなしくなった。男はまだ馬にしがみついている子供の頭を撫でる。

「大丈夫だ。もう怖くないぞ」

尚香はゆっくり顔を上げる。すると緊張の糸が切れたのか、男に抱きついてワァーワァー泣き出した。
そこへやっと孫策が到着する。

「わりぃな、助かったぜ」

馬から降りて心から礼を述べる。男も大したことはしていないと軽く返した。

「ほら尚香、いつまでも抱きついてないで離れろ」

孫策は男から尚香を受け取ろうとしたが、尚香はいやだとかぶりを振った。

「よほど怖かったんだろ。もう少しこのままでもいいだろう」

さして嫌な顔一つしてないので孫策もその言葉に甘えることにした。
三人はそのまま林道を歩いていく。孫策は同い年であるためかすぐに気が合い、尚香も気に入ったのかずっとおぶられたままだった。

「そういえば名前言ってなかったな。俺は伯符ってんだ。そいつは尚香だ」
「俺は錬仁(れんじん)だ」
「錬仁か。見たところ旅の者のようだが」
「ああ、薬師をやってる。最近洛陽で戦が始まったからこっちのほうに逃げてきたんだ」

孫策は洛陽と言う言葉に少しだけ反応したが、すぐに元通りになる。

「あんたらはなにやってんだ?馬なんぞ持ってるんだからさぞ良家の人間だろ」
「ああ、あ〜……豪商の長男でな、そいつは末娘だ。遠乗りしてたんだが馬が狸に驚いてあんなことになっちまったんだよ」
「豪商かぁ。大変なんだろうなそういうのって」
「そりゃもう大変のなんのって。ジィ……俺たちの世話をしてくれる人なんだけどな、なにかあっちゃー長男たる者はとか家を継ぐ者としてとか言ってくんだよ。まぁ、もう16だし、言いたい事はわかるけどよ。あ〜あ、俺もあんたみてーに旅人に生まれたかったなぁ」
「俺が言うのもなんだけど、あんまりいい暮らしとは言えねーぞ?」

錬仁の苦笑いに孫策は何故だと顔で訴える。

「毎日三食食べれるわけでもないし、山賊や獣には襲われるし、帰るところもない。最近は黄巾党の生き残りが山賊になったから余計危ねーんだよなぁ」

教祖である張角を討たれた黄巾族はその後各地で山賊へと成り下がり、未だに黄天の世の幻想を抱き続けている。

だが張角が生きていた時でも同じようなことをするものは大勢いた。民から見てみればやっていることはあまり変わらないのである。

「そーなのかぁ。どっちもどっちってことかなぁ」
「面倒くさいって点じゃそうかもな」

2人は噴出すように笑う。

「あんた、これからどうすんだ?」

尚香が泣き止んでから半刻。すでに寝入ってしまったので別れの時が来た。

「この先に小さな集落があるって聞いてな。そこに行こうと思う。薬ってのはいつでもどこでも誰かが必要としてるもんだからな。…………ん?」

錬仁が何かに気付いて遠くを眺めた。孫策もそれに習って見て見ると、黒い煙がモウモウと立ち上がっていた。

「火事か?にしちゃあでかすぎるか」
「もしかして……襲われてるんじゃないか?」

錬仁の一言で孫策に言い知れぬ悪寒が走った。

「こうしちゃいられねー!」

孫策は馬を走らせようと手綱を握った。

「ちょい待ち!どうするつもりだよ」
「助けに行くに決まってんだろ!」
「その子を連れて?」

そう言われて孫策は自分の腕の中で眠っている尚香を見る。たしかにこのまま行くのは馬鹿のすることだ。

「剣、借りるぞ」

言うが早いか、錬仁は孫策の荷物から装飾された剣を引き抜いた。見るものが見ればかなりの値打ちがあるとわかる。

「さっさと戻って部下でも連れてきてくれ。それまで少しだけ時間を稼ぐからよ」

兵士を連れてくる。孫策はその意味を一瞬だけ理解し損ねた。

「知ってたのか?」
「噂ぐらいならな。孫家の放蕩息子「孫 伯符」こと「孫策」と、末娘の「孫尚香」。噂どおりの放蕩っぷりでちょっと残念な気もしたけど」
「残念っておまえなぁ」

やや苦笑いを向けて孫策は馬を今来た道に向きなおす。

「危なくなったら逃げろよ」

孫策は返事も聞かずに馬を走らせた。
錬仁は孫策が置いていったもう1頭の馬を見る。

「馬には乗ったことねーんだけどなぁ」

考えてみれば至極当然のことだろう。そもそも馬が買えるほどの金を持っていれば薬師なぞやっていない。
だが事態は急を要するため、錬仁はしぶしぶ馬の背に乗った。

「頼むぞ。村まで走ってくれればいいんだからな」

背負っている薬箱が振り落とされないようしっかり固定し、大きく深呼吸する。そしてさっきの孫策の動きを真似して勢いよく手綱を引いた。

「おぉっと!」

雄叫びを挙げ、前足を跳ね上げて馬は林道を真直ぐ走っていく。

「(剣の心得はあるにしても精々多くて10人が限界だろうなぁ。元は農民なんだし何とかなるか)」

職業柄山賊に襲われたことは幾度もある。そのときは逃げることを最優先にしていたためまともに戦ったのは精々2・3人だった。

「(貧乏くじ引いたかなぁ)」

ちょっと後悔しつつ、錬仁は鞘から刀身を抜き出す。かなりの業物なのかもしれないが、生憎錬仁にはわからない。

「(なんとかなるかなぁ)」

村の入り口まできた錬仁は、今まさに頭に黄色い布を巻いた男が家に火をつけようとしているところを確認し、その男に向けて鞘を投げつけた。

鞘は男の額に当たり、当たり所が悪かったのかそのまま気絶してしまった。
異常に気付いた仲間が徐々に集まっていく。数はおよそ8人ほど。

錬仁はさっき思ったように何とかなると思ったが、大切なことを忘れていた。
黄巾の乱が終って数年。彼等はすでに農民ではなく、れっきとした山賊なのだと言うことを。

野生で培われた剣の腕は侮りがたく、それが8人もいれば同じレベルの錬仁が追い詰められるのは当然の結果だろう。
気絶していた男も参戦し、錬仁は一気に追い詰められた。

「(危なくなったけど逃げれねぇ)」

2人ほど殺した時点で剣を弾かれてしまい、使い古された自分の剣で家の壁を背に応戦するがたいした成果はない。

殺気立った黄巾族がジリジリと錬仁に近づく。
錬仁は目の端に逃げていく十数人の村人を確認すると、とりあえずこの後の結末を受け入れることにする。

人を救うのが彼の使命ならば、こういう結末もさして意外とはいえないかもしれない。
錬仁に一番近くにいた男が剣を振り上げる。鮮血が舞う。
その血は錬仁の顔にバシャリと被った。

「うがああぁぁぁあ!!」

今錬仁に剣を振り下ろそうとしていた男が叫ぶ。
錬仁にも何故助かったのか理解が出来なかった。だが次のセリフで納得に変わる。

「待たせたな!錬仁!」

数人の部下を連れた孫策がそこにいた。


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少し遡って、城へ引き返していた孫策はあることに気付いた。

「(ここから城までかなりある。例え城から何人か兵士を連れてくることが出来ても、準備から村に行くまでかなりかかるじゃねぇか?)」

そこまで考えると孫策に迷いが生まれる。

今から引き返すか?

『その子を連れて?』
『兄さんは長男だから、いつか父様の跡を継がなくちゃいけないって』

このまま城に行くか?

『準備から村に行くまでかなりかかるじゃねぇか?』

それまでに錬仁が、村人が生きている保障は一切ない。

そう考えているうちにも村から遠ざかっていく。
孫策はギリっと奥歯を噛み締めた。

見捨てるに等しい援軍を呼びに行こうとしている。

ふと、腕の中で寝ている尚香が苦しそうな声を挙げる。どうやら抱えていた腕に自然と力が篭っていたようだ。
普段のおてんばが嘘のように眠る妹を見て、

「(すまねぇ)」

孫策は声を出さずに謝る。
そしてそのまま城へ向かって走り続けた。
すこし走っていくと、孫策は複数の蹄音を耳にする。そして前方を確認するため目を細めると見慣れた連中が走ってきていた。

「若ー!」
「ジィ!?」

走る速度を緩め、お互い近くまで寄る。

「ご心配なされましたぞ。さぁ、城へお戻りくだされ」
「ワリィなジィ。それどころじゃねーんだ」

言うが早いか孫策はジィと呼んだ初老の男に尚香を預け、剣を奪い取る。

「若、何を!?」
「この先にある村が賊に襲われてんだよ。ジィは尚香を連れて帰ってくれ。残りは俺に付いてこい!」

素早く馬に乗り今来た道を引き返していった。その場には尚香を抱えた男とその部下達がポツンと取り残された。

「あの……いかがしましょう」

部下の一人が尋ねる。それを聞いて男は我に返る。

「皆は若の御助勢を。ワシは急ぎ城へ帰って援軍を連れてこよう」

部下達はそろって返事をし、孫策の後を追った。
男はそれを見送り、自分の任を果すべく城へ引き返していった。


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「相手は賊だ!遠慮はいらねーぜぇ!」

孫策の掛け声が合図になり、山賊共と戦闘がはじまる。

「邪魔だオラァ!」

孫策は襲ってきた一人に上段蹴りを当て、力尽きた錬仁に駆け寄った。

「大丈夫か!?」

見たところ軽い切り傷しか目立たず、大事ではないと判断する。

「ああ。随分早かったな」
「日ごろの行いが実を結んだってことかな。立てるか?」

孫策が錬仁の手を引いて立ち上がらせる。

「まだいけるか?」
「やらいでか」

孫策は錬仁が背もたれにしていた壁から剣を抜き取る。どうやらさっきの賊の腕を落とすために投げたらしい。
錬仁も弾き落とされた孫策の剣を取り、2人は山賊共に切り込んでいった。


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その後、突然の援軍に驚いたらしく、黄巾賊は1人2人とバラバラに逃げていった。

村はと言うと、幸いにも家が数棟焼かれただけで家畜や村人は無事だった。
孫策はジィが援軍連れてきた援軍と共に残党狩りを行い、錬仁は自分と村人達の手当てのために村に留まった。




それから一ヶ月。




錬仁の寝泊りしている空家はいつしか近隣の村から病人が訪れるほどまでになっていた。
今日も遠出してきた親子が錬仁の診療を受けている。

「三日ほど前から熱が下がらないのですが……」

布団に寝かせた子供を診る錬仁に親が最近のことを話す。

「おそらく、そのイモの芽がちゃんと取れてなかったんでしょう」
「芽……ですか?」
「ええ。ある種のイモの芽には強くは無いですが、れっきとした毒が含まれてます。しばらく体にいいものと、この薬を食後に与えてください」

その場で調合した薬を渡し、夫婦が子供を連れて帰っていく。そしてすぐに次の患者が家に入ってくる。
それは最近よく出入りするようになった放蕩兄妹だった。

「先生、うちの妹がおてんばで困ってるんです。何とか直してください」

微妙に字が違う。

「無理ですな」
「兄さんなんてこと言うの!!先生も無理ってどういうことよ!!」

2人のあんまりな発言にキーキー怒り出す尚香。

「そういうところがおてんばだぁっつんだ。どうだ?商売の方は」

尚香を軽く避けて応対用のイスに座る。甲冑を着ているせいかギシギシと嫌な音を立てる。

「皆が皆診察代を払えるわけじゃないからぼちぼちだな。ところでその『先生』ってのやめてくれない?」
『別にいいじゃん』

2人の意見が見事に重なった。

この時代ではまだ物品交換の風習は未だにある。そのため診療代が毎回金銭というわけではない。
錬仁の経験では風邪薬を調合しただけで、

「支払う物がございませんので我が家の家宝を」

と言われたこともある。もちろんそのときは断ったらしいが。
大抵は農民らしく畑で取れた作物や狩りで取れた毛皮などが主流だったりする。

だが、その作物も栄養失調が原因で体調を悪くした患者に与えるので大きな利益にはなかなかならない。
むしろ薬が景気よく減っていく。

「無理しねーでもう少しいいものもらったらどうだ」
「薬を貰うために無理して金を作って悪化したんじゃ本末転倒だろう。金は払える奴からもらう事にしてる」

とは言ってみたものの、薬箱の中は最初の頃とは雲泥の差があるほど量が減っている。

こうも毎日客が来るのだから薬草の調達もままならないのだろう。

「そろそろここも潮時かな」

薬を仕舞いながらポツリと呟く。

「シオドキってなにぃ?」
「そろそろこの国を出ようかなって」
「先生どこか行っちゃうの!?」

そんなことさせないと言わんばかりに尚香が錬仁にしがみつく。

「やけに急じゃねーか?」
「ばか言うな。元々薬を売って旅をしてるんだぞ?こんなに長く居座ること事態あまり無いんだよ」

そういうと村周辺に生えていた薬草を調合し始める。

「なに作ってるのぉ?」
「傷薬」

尚香はそんな錬仁のやることを見続け、孫策は沈黙が耐えられなくなったのか素朴な疑問を問う。

「先生、何で薬師なんかやってんだ?」
「親父が元々薬師だったんだ。濮陽でそれなりの店を構えてたんだけど、黄巾の乱があって何もかも取られた」
「お袋さんは?」
「黄巾党に入った。世の中を正すんだっつってな」

錬仁の顔にわずかな悲哀の表情が浮かぶ。

「親父も必死で説得したけどお袋は……なんか操られてるみたいに黄天の世がどうのって言ってたな」
「それで……どうなった」
「いの一番に出陣して一本の矢で死んだらしい」

作業の手を休めることも無く淡々と話す。

「その後、親父も黄巾族じゃないかって疑われて、止むを得ず諸国見聞の旅に出たってワケだ」
「お父さんはどうなったの?」
「昨年合肥でな…………」

錬仁はそれ以上語らなかった。

「苦労してんだな」
「多分違うと思うぞそれは」

煎じた薬草に青カビの生えた米を混ぜてすり鉢でこすりながら何気なく呟く。

「不幸じゃないってぇのか?」

「そうは言わん。でも少なくとも、俺はこうやって食うにも困っていないし、まだ生きてる。この時世に親、兄弟、恋人を失うのはそう珍しいものでもない。本当に不幸なのは……」

手を休め、見えはしない遠くを見つめる。

「不幸なのは?」

尚香は続きが気になって先を促す。

「この時代に生まれた、全ての人間なのかもしれない」
「乱世の……時代にか」
「らんせ?」

聞き慣れない言葉に尚香は錬仁に問う。

「人が人を殺して、人が人を陥れて、また争って……。人が生きて行くには辛い日々のことだよ」
「じゃあ大丈夫よ。父様や兄さん達がらんせを無くしてくれるから。ね!」

尚香の問いに、孫策はただ微笑んで頷いた。


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城へ帰る途中、孫策は錬仁との会話を思い返していた。

『多分違うと思うぞそれは』

「(誰だって苦労はしてるってことか?)」

『この時世に親、兄弟、恋人を失うのはそう珍しいものでもない』

「(戦場に出た親父、黄蓋のオッサン。一ヶ月前の尚香みたいに)」

『本当に不幸なのは、この時代に生まれた全ての人間なのかもしれない』

「(朝廷が起った頃は大きな争いは無かったっていうし。権力を持ってる連中の些細な行いがこうやって時代を乱世へ導いちまった)」

『人が人を殺して、人が人を陥れて、また争って……。人が生きて行くには辛い日々のことだよ』

「(俺ももうすぐ戦場に立つ。そのときに人を殺して……。実の娘や妹を政略結婚に使ったり……結局同盟を破棄して、されて戦が起こるのか?)」

ふと、いつかのように腕の中で眠る妹を見る。

「(確かに……人が生きていくには辛い時代だな)」

明日も錬仁と話そう。そう心に決めて、孫策は部下を連れて城へ帰って行った。



だが、それ確認した蠢く闇には気付かず。



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明朝、日が昇って間もない時間に、それは唐突に告げられた。

「なにぃ?……もう一度言ってみろ!」

早朝の報告に来た兵士の胸倉を掴んで先を促す。

「け…今朝近隣を定期巡回したところ、例の農村の方角から黒い煙が昇っているのを確認しました。
調査に向かわせたところ、どうやら賊に襲われた模様です。村人はおそらく全員……」
「錬仁は……村にいた薬師はどうなった!」
「その薬師を知っている者が調べに行ったところ、家内には道具が一式散乱していただけで、死体らしき物はなかったそうです。ですが……」
「なんだ!!」

言い辛そうにしている兵士に苛立ち混じりで先を促す。

「その薬師のものと思われる……腕が一つ、その場に残されていたそうです」

それを聞いた途端、孫策は装いも簡単に部屋を飛び出した。そしてそのまま馬屋から馬を連れ出し、できる限りの速さで村へと急いだ。

村に到着した孫策の目に入ったのは、昨日まで村があったとは思えないほど荒れ果てた集落だった。
家のほとんどは焼け、残っている家の中からは血臭と人の焼ける臭い。

衣服を破かれて横たわる年端の行かない女子供。抵抗した農村の男達。

それらを通り過ぎながら、村の端にある空家の中に入る。

グチャグチャにかき回された中。診療代として送られた物品は荒らされ、診療に来る患者のために前夜の内に作った雑炊は撒き散らされ、所々血痕を飛び散らせた部屋の隅に、壊された薬箱と、その手前に落ちている一本の腕。


薬草を扱うため、緑色の混じった指が、持ち主を明確に表していた。


「錬仁…………これが乱世なのかよ…………」


『本当に不幸なのは、この時代に生まれた全ての人間なのかもしれない』


太守の息子に生まれようが、一介の薬師の息子に生まれようが、それは変わらない。


初めて外で出来た友人だった。尊敬できる、外の世界の先生だった。


「尚香は……泣くだろうな……」


自分も泣いているのだから。