小沛を陥落した呂布は、劉備の妻子は捕虜にし下?城で籠城した。従兄弟の夏侯惇が打ち破られ、部下の劉備から救援要請を受けた曹操は、自ら軍を率いて徐州へ赴く。


建安3年、冬のことである。







翌日、正式な会見をするため孫策以下数名の部下が玉座の前に鎮座していた。本来帝が座るはずの椅子がここにある―――という事実が、曹操の権力を現していた。

「遅ぇ」
「試しているのだろう。この程度で心を乱すようでは器が知れるということだ」

日本で言う座布団というものが無いうえ、石畳の上に正座をさせられて一刻近く経とうとしているのに、誰もその部屋に来ていない。本来なら失礼がないよう、曹操ではなく別の官が出迎えてもいいはずなのだが、会稽太守という肩書きは彼等にとって重要ではないらしい。
足も痛いが、何より風が寒い。

「いいか孫策。何を言われても癇癪を起こすな」
「わぁかってるよ」
「曹操は好色と聞く。我等の妻を差し出せと言いかねんからな」

そんときゃお前のほうが心配だよ――――横に居る周瑜を気遣って声には出さなかった。

だいたい、権力を持っている人間(この時代はほぼ男)は多かれ少なかれ妾を持っているものだ。以前記述したように、血を絶やさぬために多くの夫人を持つのは庶民すら行う。

孫策自身、妾を大勢囲っているのだ。そういう意味でこの場の好色という言葉は、女の数を表すものではない。
単に他人の女を欲しがろうとすることを指しているだけだ。

「司空・車騎将軍が参られた!!」

銅鑼が鳴り、武装した兵が部屋の中に整列すると共に、宦官が玉座の前に簡易の椅子を設置する。さすがに皇帝はこの場にいないが、皇帝の前――――それも同じ高さに設置するという辺りが、曹操らしい。

暗に自分は皇帝と同じと言っているようなものだ。

そして兵の整列が終わると、準備が整った合図を銅鑼が出す。
その直後、部屋に入ってきたのは――――――女だった。

ギョっとする孫策達だが、続けて同じ服を着た女がもう一人、もう一人と入ってきたため、納得がいった。彼女等は単なる女官だ。
そして最期に、小さいながらも武芸を身に付けている者特有の体をしている男が入ってきた。

時代の雄と呼ばれる男。しかし、このような場で女を侍らせているという点では、好色というのも間違った認識ではなかったらしい。

「ワシが司空・車騎将軍、曹操よ」

その威厳ある一言で、孫策は己を引き締めた。
小柄とはいえ、この時代を生き抜いた男は正に雄を体現している。

「会稽太守、孫伯符にございます」
「遠路はるばる、ご苦労であった」

今、交渉と言う名の戦争が始まった。互いに大勢の部下がこの場にいるが、これは2匹の雄同士の睨みあいだ。

そんな熾烈な話し合いが行われている最中、彼の横に控えている女官の一人が、誰にも分からぬよう微笑み、呟いた。

やっぱお前か―――――。








「あ〜……、暇だわ〜」

ゴチャゴチャした服を着せられている尚香は、皺ができるのも構わず臥牀に寝転がっている。姫らしく、そして暴れないよう拘束具として、曹操へのアピールとして着飾らされ、本当に暇な時間を過ごしていた。

「先生のとこ行きた〜い。話し聞きた〜い」
「私に言われましても……」

内外を警備している孫と曹操の兵を欺くには日の光が強すぎて、夜のようにおいそれと抜け出すことができない。
皆何が起きてもいいように目を光らせている。

そんなときに一族の長の妹が問題を起こせば、外交が不利になるのは明白。ゆえに尚香も文句を垂らすだけで、何かを起こす気はなかった。
その文句を一身に受ける貂蝉の心労は、想像しがたいものがあるが。

「先生今頃なにしてんのかな〜」
「美鈴が言うには、前のツテを頼って短期開業するとか」
「先生ってどこ行っても生きていけるんだね〜」

それが出来なければ流浪の薬師など到底やっていけないだろう。元々薬師という肩書きそのものが宗教以上に怪しい部類なのだから。

それでも奇跡を目の前で見せられたら、頼る者は後を絶たない。錬仁がしていることはそれだけの価値がある。

「あ〜…ホント暇」
「普段は何をしていらしたのですか?」
「鍛錬。たま〜に兄さん捕まえて本気の喧嘩してたけど」
「他は?」
「…………おなか空いたな〜。先生の雑炊食べた〜い」
「正気ですか?」

動いて食って寝てを繰り返す日々。女だというのに大勢の山賊を相手にして生き残った実力は、ただひたすら力を求めた結果にすぎない。

大事な人との別れは彼女を豹変させ、拳を開く暇を与えなかった。その片方が戻ってきたのだ。二度と失いたくないという強迫観念が働いてもおかしくなかった。
あの悶絶する雑炊を食べたいと言うあたり、そろそろ我慢の限界が近いのかもしれない。

だがそれは貂蝉も同じこと。叶わず、叶えられないことをうだうだと言い続けられても困るため、后として培った知識を活用して、なんとかこの場を切り抜けるために思案し、

「では、長兄様の手助けをするのはどうでしょう?」
「髭ジジィでも誘惑するの?」
「それも一つの手ですが、殿方がお嫌ならば夫人を誘ってみましょう」

ニコニコと笑う顔でとんでもないことを言った。

「ねぇ貂蝉」
「はい?」
「私、そっちのケはないんだけど?」
「あらあら。そんなことでは宮の女としてやっていけませぬ」
「貂ーーー蝉ーーー!?」

貂蝉が手をワキワキと動かしながら近づくと、尚香は目にも留まらぬ速さで臥牀から立ち、部屋の隅に逃げた。

「冗談です」

そう言ってクスっと笑う。だが尚香はその笑みに胡散臭いものを感じて、微妙な距離を保ったまま椅子に座った。

「誘うのは単に雑談をするだけです。菓子でも食べながら殿方の愚痴を言い合うだけのこと」
「なにそれ?伽の長さとか聞けっていうの?」
「殿方の器は傍に女が一番知っているものです。髪飾りの一つも買ってもらえないと言えば、財政に難がある。食事が貧相だと言えば農民の不足、ひいては兵糧の不足。という具合に、些細なことで推測できることは山ほどございます」
「それは……いいと思うけど、后になりそうな人が、たかが太守の末に会ってくれるかなぁ」
「あら、さっき尚香様はおっしゃったではありませんか」
「何を?」
「本当に暇なのは、貴女だけではございませぬ」









「お前の父、孫堅のことは今でも覚えている。野盗共を一計で追い払った武勇は、ワシの耳に届いておった」
「孫武の子孫として、ならず者に遅れを取るわけにはいかなかったのでしょう」
「ふん。孫子か……」

孫武=孫子だが、曹操が鼻で笑ったのはちょっとした意味がある。

孫堅が孫子の子孫である明確な資料は存在しない。単に孫という名前が一致していたことから、本人がそう名乗った程度の情報しかない。

資料によれば、孫子の子は代を重ねるごとに名が変わり、この時代では荀ケもしくは程cが子孫に該当するのではないかと言われている。
この2人はどちらも曹操に仕える官である。

「だがその孫子の血は盗人の血でもあるようではないか。奴が玉璽を隠匿した所為で、連合は解散してしまった」

痛いところを――――元々連携をとろうとしなかった連合だが、明確な裏切り行為が引き金になったのは事実である。
なんとか成り上がろうと画策する群雄の中で、玉璽というこれ以上が無い道具を手に入れた孫堅に野心が生まれても仕方が無いことだ。

それを簡単に認めるわけにはいかない。

「それは誤りです。あの時、確かに玉璽はあの場にありました。しかし隠匿したのは我が父ではなく、袁術でございます」
「ほう?」

思わぬ反論を食らい、曹操は面白そうに続きを促した。

「玉璽を手に入れた袁術は、恐れ多くも皇帝の権力を我が物にしようと画策し、その隠れ蓑として我が父を矢面に出したのです。袁紹殿が父を追い回している間、奴は着々と皇帝としての地盤を固め、そして今、皇帝を名乗り袁紹殿に対立するまでなりました」
「信ずる証拠は?」
「私とこの、周公瑾の目で、奴の手にある玉璽を見ました」

周瑜は肯定の意味を含めてお辞儀をした。

ふむ――――呟いて、曹操が隣の女官に目配せをすると、椅子の後ろから水を差し出してきた。
それを一口飲んで、話しを再開する。

「袁術は無悪不造を繰り返し、民を苦しめております。このままでは江東も餌食となるでしょう」
「そうだな。皇帝の意は絶対だ。たとえ2人居ようとも」

皇帝は一人しかいない。だが天子が天子であるために必要なものは、はっきり言えば血ではない。

「だが偽皇帝とはいえ、玉璽を持っているというのなら、ワシはその命令に従わねばならん。なにせ、ワシが擁護している天子の御言葉なのだからな」

皇帝を擁護する者が皇帝を襲う。この矛盾がある限り、曹操は手を出せない。いずれもう一人の皇帝にも手を出すのではと、疑いをかけられてはいけないからだ。

「皇帝を擁護している貴方は、偽皇帝を容認することができない。ですが、別の者が討てば、逆賊の討伐で済ませられる」
「そのためにワシの兵を使うというのか」
「私の下に居る以上、私の兵ということになりますが」
「ならば、問題は無いな」

曹操は水を注ぎなおしてもらい、大きく呷る。

「だが、おいそれと兵を貸すほど、お前達を信用するわけにはいかない」
「では如何にして信用を得ろと?」
「なに、そう難しいことではない。ワシの軍は癖の強い者が多くてな。連携や運営がうまくいくのか、少し不安なだけだ。そこで、お前の手腕を見せてもらいたい」
「手腕とは?」
「戦の手腕だ。呉群を平定した腕を奮えばいい」

曹操は立ち上がり、少しだけ孫策に近づいた。

「お前にワシの敵を屠ってもらおう」










まさかこんな短時間で実現するとは―――――断るべきだったっと後悔する尚香だがもう遅い。
暇を持て余していた女達は、飢えた野獣のごとく貂蝉の申し出に飛びついた。菓子に香等々、贅沢品と呼ばれるものが振舞われ、煌びやかな服を纏った女達は五月蠅いほど笑っていた。

やれ天子の世話がどうの、膳夫が犯した些細な失態、自分があーしたこーした。一人が自慢話をしては別の誰かが賛同して、似たような話を繰り返す。
時折江東のことを聞かれるが、貂蝉が相手を持ち上げつつ最低限の情報しか出さないで話を終わらせる。
どうやら彼女はこの手のあしらい方を熟知しているらしい。

まったく興味がそそらない話が行き交い、尚香の意識がそろそろ別の場所に行こうとしたとき、

「皆様大変楽しくお暮らしになられておりますのね」

貂蝉が反撃に出た。

「天子の国ですもの。ここは天上と同じなのですよ」
「ですが、基盤たる天下あってこその天。治める曹操様は才気に秀でておられるのですね。寵愛を受ける貴女方が…………?」

ピタリと談笑が止んだ。曹操という言葉に反応して、女達は一斉に口を閉じたのだ。

「………如何しました?」
「曹操様は女を好んでおられません」

それはおかしい。女嫌いと言うのなら、そもそも後宮を持つこと自体有り得ない―――まではいかなくとも、ざっと見ただけでも後宮には大勢の人間が居るというのに、女に興味が無いというのは納得できることではない。外面を保つために宮を持っているというのなら、もう少し人が少なくともよいはずだ。

「ここにいる者は各地の豪族から友好の印として送られた女達ばかり。曹操様自身が選ばれた女は誰一人おりませぬ」

こんだけ居れば十分だからでしょ――――当然の反応をする尚香だが、ならばなぜ曹操は好色と言われているのだろうか。
曹操は豪族の家に赴き、気に入った娘を連れて帰ると言われたほうが、まだ説得力がある。しかし実際は逆で、曹操に取り入ろうとした豪族が勝手に送ってきたという。

「そればかりか曹操様が後宮に足を踏み入れたことは一度もございません」

それは十分怪しい――――尚香とて男の性を知らないわけじゃない。何の苦労もせず女を抱ける環境が整っているのに、それをしないというのは――――。

「宦官の話によれば、夜は常に自室に篭って誰も部屋に入れぬと。女官はおろか太尉(いわゆる国防長官)すら許可を与えないと」

それはつまり、国防以上に大切なことを部屋の中でしていることになる。単に暗殺を恐れていると言えば、妥当な判断ではあるかもしれない。

「しかし唯一の例外があります。建武将軍・済陰太守様だけは制約無く入室ができるとか」
「建武将軍とはどなたのことでしょう?」
「夏侯惇様です」

記憶が正しければ曹操の従兄弟。親族に多大な信頼を寄せるのは別に珍しくもない。尚香達がそうなのだから。

だが暇を持て余した女達は、その豊かな想像力を駆使してイケナイことを考えてしまうものである。


それは草木も眠る夜半。月が照らすのは往年の男2人が一つの部屋で、

「(鍛錬でもしてんのかしら)」

健全な尚香にはこれが限度だったという。

「(しかしこれは……思いもよらぬ情報ですね)」

曹操に関する噂を話し合う女を無視して、貂蝉は今の情報を即座に整理する。

好色でありながら女に興味が無い。内外の人物像が正反対というのは、他国と自国の差で済ませられるのだが、今回は少し奇妙な部分がある。

女にうつつを抜かさない曹操。捉えようによって誠実そうな像があり、少なくとも好色よりはマシと言える。ならばより多くの民を得るため、人望を蹴落とすような噂は消し去るべきなのだ。

悪像が蔓延すれば人の心が離れ、政事に支障をきたす。

本来ならその程度の情報操作は容易い。曹操の実生活を知っているのは宮に住む一部の人間で、その他は所詮噂程度でしかない。

そもそも曹操自身、外交といった表舞台に立つことはほとんど無い。なぜなら外交と内政を行うのは、彼のみではないからだ。

各分野の代表が集まり、各々の意見を曹操がまとめ、発令し、多くの人員を用いて政策が成されて行く。特に重要なモノ以外で曹操自身が出張ることはほとんど無い。

曹操と対峙できた人間がこの世にどれだけいるかわからないが、曹操が好色であると決定できる状況に遭遇出来た者はどれだけいるだろうか。少なくとも曹操自身から、己は好色である―――などと聞かされた人間はいないだろう。

そのうえで、他国の権力者の人物像を計るには、外交をしに来た人間に聞くか、潜伏している間者を頼るしかない。それも噂程度のモノをだ。

だが現実に蔓延しているのは好色と言う名の悪像。内外の印象が一致していれば、その通りの人物で済ませられるのだが、違うということは、意図してそういう情報が流されている可能性が高い。

「(果たして何が隠されているのか………)」

何か悪いクセでも再発したのか、貂蝉は心の中で面白そうに顔を歪ませた。








徐州へ攻める。曹操はその役目を孫策に与えた。

「ワシの可愛い部下が追い出されて路頭に迷っておるでなぁ。天子がおわすこの地から兵を出すわけにはいかんが、近隣の城からわずかに将を出す。これと孫の猛者が合わされば、城一つ落とすのは容易かろう」

よく言う。可愛い部下を手元から離すものか。しかも城を奪われたというのに、帰還すら許していないのだから、その将への愛着度が見て取れる。

そのうえ孫の兵まで使うと言っているのは、自分の兵を減らさないため。実質、孫策の軍が曹操の代わりをしろと言っているのだ。例え負けても曹操の懐は痛まない。

これだけ理不尽な要求だというのに、孫策はきっぱり断ることすらできなかった。本来頼るべき袁術を見捨てて、敵の曹操を頼らねばならないほど、孫策の立ち位置は非常に危うい。

もしここで曹操の協力を得られなければ、孫策の周りには敵しかおらず、破滅を意味している。しかし要求を飲んで痛手を負えば、どの道同じことだった。

「恐れながら!」

答えを出しあぐねていた孫策に代わり、頭を大きく下げた周瑜が話に割って入った。

「我等は江東を守るため、多くの兵を出すことはできませぬ。また、平定したとはいえ傷も癒えきれておらぬ有様。そちらは如何ほどの数を出すおつもりでしょうか!」
「……フン」

いきなりでしゃばった周瑜が気に入らないのか、曹操は不機嫌そうに鼻を鳴らして椅子に戻った。そして水を注ぎなおしてもらい、

「将は6人、兵は7000。物資は貴様等の軍の半分まで出そう」
「兵を、あと3000増やしていただきたい!」
「ならん!これ以上減らせばこの許昌を、天子を新兵混じりで守らねばならんからな。まさか天子をないがしろにしろとは言うまい?」

体のいい断り方だ。こういう使い方ができるから、曹操は天子を手元に置く。誰もが敬わねばならない者を守る大義名分として。

「その3000は、全て新兵で構いませぬ!」
「なに?」

この反撃には曹操も肝を抜かれた。戦において新兵はまったく役に立たない……まではいかなくとも、馬より扱いが難しいものだ。死の恐怖は全ての感覚を鈍らせ、脱走者まで出す。

「(なにか策があるというのか?面白い)」

軍師が互いに睨み合う静かな部屋で、コトっと音がした。女官が自ら進んで水を注ぎなおしてくれたのだ。水を注ぐ音、曹操が一口水を飲む音がやけに大きい。

「よかろう。新兵3000を加えることを許す」
「寛大なるお言葉、感謝します!」

周瑜は礼を述べると、その体勢のままこっそり孫策と顔を合わせた。

「(大丈夫なのか?)」
「(構わん。元々この程度の無理難題は覚悟していた)」

流石は軍師というべきか。しかし、新兵を有効に活用できる方法などあるのだろうか。
そこそこの不安が漂うが、それは構わないとほざいた軍師に任せるべきだろう。

「しからばこの孫伯符、貴殿の要望に応えてみせましょう!」
「期待しよう。虎の威が衰えていないことをな」

これにて閉議。








「つーことがあったんだわ」
「知らねーよそんなもん」

夜、孫策の軍がわざわざ作った簡易宿に、いつもの6人が集まっている。
いくら太守でも城の中に軍を置くわけにはいかず、都を囲む壁の外に軍と一部の将を、都の中に錬仁を、城の中に孫策等を分け入れている。

「いや、交渉の内容はどうでもいいんだ。曹操が始終酒だか水だか飲んでた理由が知りてぇんだよ」
「変なモン食って喉が渇いてただけじゃねぇの?」

ズリズリと草を磨り潰しながら、錬仁は面倒くさそうに返す。元々政事に関わりを持たないと告げているので、知っていながら話題を振る孫策が鬱陶しいのだ。

「そうだな………酒を長い間大量に飲むと、手の振るえが止まらなくなる病気がある。ただしこの病気は酒を飲むと治まる。病気持ちを悟られたくなかったのかもな」
「じゃあ水なら、喉が渇いていただけ?」
「いや、そうとも限らない」

錬仁は尚香の言葉を否定した。

「体に傷を負うと熱が出るだろ?汗が流れれば当然水を欲しがるさ。間者に襲われて怪我でもしたんじゃねぇの?」
「それはありえません。もし怪我をしているとすれば、会談などいたしません」

ならば怪我に気づいていない――――錬仁はそう言って続ける。

「以前急死した女を捌いたことがある。腹の辺りに妙な出来物がたくさんあった。どういう病気か結局わからなかったが、その女も生前、よく水を飲んでいたらしい。もしかしたら曹操もその類かもしれねぇな」

元々頭痛持ちらしいし――――なにかしら病気を抱えているのは間違いないと、錬仁は締めくくった。

「そんなことより先生、雑炊食べよ雑炊。あ、美鈴達はこっちね」

はい―――と言って差し出したのは、孫策達が食べた豪華な食事だ。2人はそれをありがたそうに両手で受け取り、さっそく食べ始めた。

「すげぇよ、これホント苦くねぇよ」
「塩も効いてるし、砂糖も混じってる〜」
「今日の分の薬が明日の晩飯に追加されることを覚悟して言えな。そういうことは」

錬仁はおもしろくなさそうに、作った雑炊に薬を混ぜる。それを尚香と、とばっちりで孫策と貂蝉に渡した。

「やっぱり食わせるのか」
「ここのところ、この味から離れていたので、ことさら濃く感じます」

それでもしっかり食べるあたり、錬仁に対する2人の信頼が見て取れる。

「あ〜まずい。でもこれがいいのよね〜」
「食っちゃ寝してるやつにはいい刺激だろうよ」
「あ、酷い。これでもちゃんと仕事したんだから」

フン―――と胸を張る尚香。

「後宮で菓子食ってくっちゃべってただけだろ?」
「先生、どっかで見てた!?」
「常識だそれぐらい」

本当に常識なのかと、尚香は文盛と美鈴を見る。すると返ってきた答えは「いいえ」だった。
おおかた、錬仁にとって常識ということだろう。博識な彼にしてみれば、その程度は常識の範疇ということらしい。

「んで、なんか話は聞けたのか?この国の将軍様は短いとか」

時間が短いのかモノが短いのか、それはどっちでもいい。笑い話の肴になってくれれば、それだけでも十分収穫になる。

「…………錬仁様、一つお聞きしたいことがございます」

横でな〜んにも無い、と言おうとした尚香を遮って、貂蝉が問う。

「巷の曹操様の評価や噂をお教えください」
「好色。……は有名だが、許昌一帯じゃそこそこ名君扱いですよ。元黄巾ですが、兵士が一緒に畑を耕しているんで、税が少ないし山賊に襲われてもすぐ対処してくれる」
「他には?」
「人を見る目がある。家柄・出自に拘らず才能がある、もしくは芽吹きそうな人間を求賢令で積極的に手元に置いている」

それだけ聞けば確かに名君と言える。仁を唱える劉備にも似通っている。人が多く集まるのは、その類の噂のおかげだろう。

「では孫策様、貴方のような立場から知る曹操様はどのような方でしょう?」
「冷酷残忍。疑わしい者は親類、親友でも手に掛ける。独断専行が目立って、なおかつ小心者。諸侯に聞いた話だとだいたいこんなもんか」
「やはり、良い人物とは言えないのですね?」
「昨日の処刑を見ただろ?少なくともオレは、あんな酷ぇことはしねぇよ」
「では好色という噂は?」
「今日の会議で、横に何人も女を侍らせてたぜ」

錬仁の話とは正反対の評価。まるで悪役そのものと言っていい。

「妙な話を聞いたようですね?」
「はい。宮内の話ですが………」

貂蝉は妾達が話した内容を漏らさず伝えた。女達との関係、建武将軍との関係。ソレを踏まえて、貂蝉は錬仁に意見を求めた。

「曹操様の人物像が見えないのです。ずっと考えているのですが、ここでも噂や評価が二転三転して、まるで化かされているような気がして」
「いやぁ、噂なんてそんなもんでしょう」

貂蝉すら解き切れなかった難問を、錬仁はなんでもないように答えを出す。

「戦続きで農民は減り、土地は荒れ放題。しかも黄巾のように、負けた軍の兵士は山賊になって略奪が横行している。そんなとき、税が少なく兵士が警備していて安全に暮らせ、さらに、農民以外の道を示して出世の機会をくれる。俺達下々の者にとっちゃ天国だ」
「冷酷残忍という評価は身内への戒めと他国への牽制。攻めれば残虐非道を覚悟しなければならず、その悪声は交渉でも有利に立つことが出来る。しかし、好色という噂はなんのために?」
「考えられる案はいくつかあるが、妾が言う『女に興味をもっていない』にも関わらず、息子の曹昂以下数名作っている辺り、一般君主として十分普通だよ。貂蝉さん、集まった妾の品位は?」
「正三品……の中でも立場が低い者ばかり」
「俺の勘が当たっていればソイツ等全員貢物だ。曹操自身が選んだ女はほとんど正一品にまとめられている」
「密通を恐れて……でしょうか?」
「手を出さない最たる理由はそれでしょう。でも後宮という金がかかる場所にドカドカ人を入れる理由にはならない」
「突き返すわけにはいかないでしょう。諸侯の顔に泥を塗ることになり、叛旗の火種になります」
「女がいらないのなら好色という噂そのものを消せばいい。それをしなかったのは、女を集めることに理由がある。孫策、お前の土産に女は入ってるのか?」

話をジッと聞いていた孫策は、面白くなさそうに肯定した。

「あぁ。妾の娘を一人」
「何故女を土産に?」
「機嫌取りに決まってんだろ。他所に女を送るってのはそういうもんだ」
「だが元々は人質の意味の方が強いだろ?なのに女を渡した理由は?」
「好色だってんでな。諸侯の推挙もあったし」

自分の娘を差し出すと言われれば、当人も面白くないだろう。同じ女として尚香達も眉をひそめる。

「それだ。たかが交渉にも女を差し出すほど、曹操の噂は他国まで及んでいる」
「………わかんねぇな。それがなんだってんだ?」

孫策は話についていくことが出来ず、さっさと答えを出せと急かす。

「女を送って来る所に噂が届いている。曹操が知りたかったのは正しくソレさ」
「情報の流れを知ろうというのですか!?」
「無茶と言いたいでしょうが、これで辻褄は合いましたよ?」

孫策が行ったように、機嫌取りのために女が送られる。言ってみれば、女を送ってきた地域に噂や情報が流れたということだ。
曹操が好色という情報を意図して流し、ある地域に到達するまで観察して経路を調べれば、人の流れも把握できる。

ある地域とは敵国を指す。出所から目的地にいたる道筋のどこかに間諜がいると想定すれば、情報をこれ以上にないほど巧みに操ることが出来る。

「しかし、この乱世に軍事以外の情報が活かされるのでしょうか?」
「実際のところは試験運用という状況が正しいでしょう。わざと敵の間諜に情報を与え、別の方向で積極的に情報を広める間諜を派遣して様子を見ている、と思います。恐ろしいジジィだ。一石二鳥どころか、当たりが良ければ3にも4にもなる」

恐ろしいのはむしろアンタ等だ―――――一介の太守と末姫を差し置いて、国の最重要機密に該当する政策を、愚痴と噂だけを頼りにして暴いた2人に、孫策達はただただ苦笑するしかなかった。

そして同時に、政事に関わらないと言っておきながら、立派に政事の話をして、なおかつ有力な情報をペラペラ喋ってくれる先生に黙々と感謝した。

「とまぁ、妄想できるのはここまでだ。実際はタダの面食いとか、わざと放置して焦らしてることも考えられる」
「なにそれ。タダの変態じゃない」
「かもな。さぁ、ジジィの話はこれでおしまいだ。あとはテメェ等で考えな」

他に何を考えろというのか。孫策達はもう知りたいことを引き出せている。

「あ、じゃあ先生、アレ用の薬、また作ってよ」
「もう全部使ったのか!?一月分あるから調節しろって言っただろ!」
「あん、違うの。昨日のことなんだけど――――」

尚香は先日のことを話し始めた。
曰く、自分と同じように月のモノが酷い女に薬を分けたら、そのまま持っていかれてしまった。
全てを聞いた錬仁は、少し複雑そうな顔をする。

「困ってる人を助けるのはいいんだがなぁ……。教えてなかった俺が悪いし、そういう場合なら別にいい。その女の人はしっかり治ったんだろ?」
「うん。頭がすっきりしたって言ってた」

そのあと薬を催促したり、用事があると言って薬を持ったまま何処かへ行ったり、始終旺盛な女だったと、尚香は締めくくった。

「お前も大概だろ」
「私はあんなにアホっぽくないもん!」

尚香をもう少し活発にしたらあんな感じになるだろうか。女のことを知っている孫策と貂蝉は、本人には絶対言えないことを思い浮かべた。

と、そこへ

「誰がアホだーーーー!!」

バキィ!と玄関代わりの薄い板を蹴り破る者が現れた。

夜盗か――――文盛と美鈴は食事を止めて麻袋を持ち、孫策達は手持ちの武器を取って構えた。
だが彼等が動くより早く、飛び込んできた者は勢いを殺さず、直線状に居る錬仁に向かってもう一度跳んだ。

「先生――――?!」

短刀を握った尚香が慌てて振り向くと、

「いよう、先生。約束どおり会いに来たぞ〜」
「交わした覚えの無い約束だよな、それ」

賊かと思われた女に抱きつかれて笑いあっているという、見事に心配を裏切る光景が目に入った。実際、笑っているのは女だけで、錬仁は苦笑している。

そして尚香、その女の声と後姿に覚えがあった。

「あーーー!昨日のーーー!」
「ぬぉ!?なんで孫がここ――――わっち!」

何かヤバイことを言ってしまったのか、女は慌てて口を塞いだ。
その女にとって幸いだったのは、電光石火のような登場で周りが付いてこれなかったこと。おかげで女の失言も聞き逃された。

よかったよかった――――怪訝な目を向けられながらも、安堵して溜息を吐く。

そして、女にとって不幸だったのは、

「おい、お前なんでコイツが孫だって知ってんだ?」
「このいらんことしい!!」

ここに錬仁という男が居たこと。

「つうか、なーんでここに孫の太守と末娘がいるわけ!先生、アンタ一介の薬士じゃなかったんか!?」
「ちょっと!なんでアンタが先生を先生って呼んでんのよ!」
「尚香様違います!指摘する所はそこではありません!」

わーぎゃーと、尚香と女が中心になって部屋一杯に喧騒が響いた。途中で合流したらしい片目の男に孫策が見覚えがあるといって騒ぎ、もう収集が付かなくなってしまった。

どうせ厄介ごとだろうとあきらめた錬仁は、

「はいはい、うるさいうるさい!」

手を強く叩いて場を鎮めた。

「いいか、俺は聞きてぇことがあるし、お前等も互いに聞きてぇことがある!だがそのまえに!」

薬を作っているところを邪魔されたからか、錬仁の口調は少し荒かった。尚香達は少し怯えながら次の言葉を待つ。
すると、錬仁は小さい杯に薬を注ぎ、

「お前等2人はまずこれを飲め」

扉を蹴り破った女と片目の男に一杯ずつ薬が手渡された。