「誰が飲むか!」

眼帯をしている男が言うことは当然だ。どこの誰かもわからない人間が差し出した得体の知れないモノを食べるほど、腹が減っているというわけではない。

「私は飲むぞ」
「ちょ、おま!」
「どうしたトン。飲まないのか?」

なぜか面白そうに女は問う。飲みたい奴だけ飲めばいいのに、なぜかトンと呼ばれた男は恨み言を吐きながら、女より先に杯を口につけ、

「ぐぼぁ!!」

初めて錬仁の薬を飲んだ隻眼の男は、案の定盛大に吐いた。そして咽に咽て、今は貂蝉に背中を擦ってもらっている。
そしてもう一人のほうは、

「おぉう……ぉ…ぉおう」

チビリチビリと飲んでは、その度に身を震わせている。

「俺が言うのもなんだけど、よく飲めるな」
「これがクセなる」

尚香達はどういう神経をしているのか疑うしかなかったという。

「だが時間稼ぎしても、この場は穏便に済ませられんぞ」
「ホント、いらんことしいだなアンタ」

観念したのか、女は椀を一気に傾けてズビーっとすすった。
空になった椀を置き、改めて錬仁並びに孫策と対峙する。

「しかしおいそれと自分を語るわけにはいかない。まずはそちらの誠意を聞こうか」

女でありながら胡坐をかき、男のように振舞う姿は彼女の容姿に合わないが、妙に慣れているように見えた。
単なる虚勢ではないらしい。

「こっちは会稽太守、孫伯符と末姫の尚香。その侍女貂蝉」
「おい先生!」

孫策は勝手に身分を明かす錬仁を止めようとする。どんな事情があれ、魏の客がここに居ていい理由はない。女の正体はわからないが、余計な騒動を出したくない。

しかし錬仁はなんでもないように、次の言葉をつむぐ。

「それで、建武将軍・済陰太守を連れてるお前は何者だ?」

この男は何を言っているのだろう――――誰もが唖然とする中、問いかけられた女は不敵に笑う。

「うちの丁稚を建武将軍扱い?御上に知られたら刎頸ものだ」
「忠将を丁稚扱いする方もどうかと思うぜ」

片方は否定し、もう片方は否定を肯と言わない。しばらくにらみ合い、錬仁が虚言を吐いていないと悟った女は、降参のため息を吐いた。

「何故わかった」
「まぁ見た目だ。隻眼に鍛えた体、言葉遣いも慣れてるし」
「決定的じゃないな。どれも模倣できる範疇だ」

夏侯惇は頻繁に領地を視察したり田植えの教授をして、大勢にその身を晒している。
つまり外見を取り繕うことは誰でもできる。

その答えを言う前に、錬仁は手を伸ばして女の髪を一房掴んだ。
夏侯惇(推定)が血相を変えて立ち上がろうとするが、貂蝉が首に短刀を当てて動きを封じる。
錬仁は掴んだ髪を口元に持ってくる。

「いい香りだ。純檀木辺りか、いい趣味をしてる」

髪を掴まれても微動だにせず、笑っていた女の顔が一転、悔しそうなものに変わった。

「………『におい』か」

前述したが湯を張る風呂や蒸し風呂はこの時代に無い。豪族庶民問わず、体臭は凄まじいといわれている。
しかし豪族は金にものを言わせて香油や香木を取り寄せ、髪や服に染み付かせて誤魔化していた。これは男も女も変わらない。

「庶民を騙したきゃもう少し習学しな。下の人間はこういうものに敏感だ」
「忠告痛み入る」

解放された髪を手櫛で整える。年齢は尚香とあまり変わらなそうだが、妙に艶やかだ。

「さて、こっちは誠意を示した。今度はそっちの番だ」
「ん……」

女は拘束されている夏侯惇(推定)を見る。何もさせないから離してやれと目が語っている。
貂蝉は錬仁に支持をあおいだ。本当なら孫策に聞くべきなのだが、この場を取り仕切っているのは言うまでも無く彼だからだ。

構わない。首を縦に振って示すと、貂蝉はゆっくり夏侯惇(推定)から短刀と体を離す。
夏侯惇(推定)は警戒しながら、女の後ろについた。

「察しの通り、コイツは建武将軍・済陰太守、夏侯惇(決定)。私の叔父だ」

将軍であり叔父に対して随分な言い方をする。それだけ女の立場は高いらしい。

「そして私は――――」
「安陽公主………辺りかな?」

またも唐突に発言した錬仁を、夏侯惇と女が驚いた顔で凝視する。
その反応が正解だと踏んだ錬仁はなんでもないように笑った。

「なに、難しい話じゃない。宮内にいる建武将軍の兄弟は車騎将軍しかいない。そして長女の清河長公主は建武将軍の男子と婚姻してここにいない。曹憲はまだ幼すぎてその外見はありえない」

長女は居らず三女は年齢が足りない。ならば残った次女が該当する。確かに難しい話ではない。

「ちなみに、お前の姉と建武将軍が親子関係になってるのを知ってるから、この組み合わせもなんら驚かない」

それはアンタだけだ――――後ろで聞いている孫兄妹と貂蝉は口出さないで叫ぶ。
ちなみに弟子二人はとっくに話の輪から外れて食事を再開している。

「ったく、人の政略暴くわ内情暴くわ。先生、アンタこそ何者だ」
「南海の山村から来たしがない薬売り」
「ふざけるなよ?薬の腕は認めてやるが、その識見をただの庶民がもてるか」

只者ではない庶民、そんなものが該当するのは他国の間諜ぐらいしかない。日々を生きる庶民でも政の話はするだろうが、それは間諜が撒き散らした噂話を伝聞したものだ。
字もまともに読めない庶民が持てる知識ではない。安陽と呼ばれた女は不機嫌を顕にして錬仁を睨む。

「よく言うぜ。そういう見識を持つ庶民が来るように間諜を放ったのはテメェ等だろ」
「限度を考えろ。その聡明……どこぞの官仕にも劣らぬわ」
「なら、このいわれ無き疑いは官打の如くだな」

今にも喧嘩をふっかけそうだった安陽の表情が、錬仁の締めで霧散した。

「その口ぶりからすると、求賢令に釣られて来た口か?先生なら州牧まではいかないが、州刺史なら用意するぞ」
「んな!?」

後ろに控えていた孫策が驚く。話の内容は半分も理解できていないが、錬仁に四品の位を授けると言っているのは流石にわかった。

孫策は郡太守。今で言う私兵を持つ市長のようなもの。
対して錬仁が受け取ろうとしている品位は県知事。用意ができると言った刺史は軍権こそ持たないものの、立場は孫策よりずっと上だ。

一介の、それも町民ですらない流浪の庶民である錬仁をそんな地位に置けば、間違いなく反感を買うに決まっている。

「いらねぇよそんなもん」
「はぁ!?」

孫策ですら少し心が惹かれる官職をそんなもの扱いした。根無し草で極貧である錬仁ならば喉から手が出てもいいはずなのに。

「むぅ……ならば少府はどうだ?」
「九卿だと!?」

今度は夏侯惇が吼えた。惜しげもなく三品の位を差し出すのだから。

「見てくれはいいけど、結局ただの番頭だろ?やだよ」
「錬仁様、ここの宮内の衣服宝貨珍膳は天子様の物も…………」

そこらの商家とは程度が違う。だというのに錬仁の返答は変わらずそっけない。

「だいたい、そんな魂胆見え見えなことされて、素直に仕官すると思うか?」
「魂胆は半分あるが、真剣に先生が欲しいとも思っている」
「酔狂だな」
「私が酔狂なら、先生の価値がわからない奴等は凡骨……いや、愚骨―――」

ちょっと待ってくれ!――――――安陽の口上を孫策が遮る。

「話の腰折って本当に悪ぃって思ってる。でももう限界なんだ。俺達にもわかるように説明してくれ」

孫策の懇願に同意する視線が6つ。つまり錬仁と安陽を除いた全員だ。

「いいのかい?」
「私はかまわんよ。どうせあとでよく考えればわかることだ」
「う〜ん……なら、非公式ながら国の重鎮が顔を合わせるんだ。それなりのモノを馳走しよう。美鈴、湯を沸かせ」

返事をして準備をしている間、錬仁は荷を解いて数枚の葉を取り出した。

「仙樹の葉を少し炒って作った茶葉だ」
「うそ、お茶!?」

この時代の茶葉は非常に高級品だ。種類と数が少なかったり、せっかく見つけても樹木が乱獲されたり、定期的に売られるものではないからだ。
広い中国大陸ならば尚更流通に限界がある。

太守どころか、天子すらおいそれと飲めるものではない。尚香が驚くのも無理は無かった。

「この香り……紅豆杉か」
「こっちではそういう名前なんだな」
「いや、適当に言っただけ」

なんだよそれ―――――沸いた湯の中に茶葉を入れ、しっかり滲み出るよう不規則に揺らす。
ある程度色が染まったら、隙間無く並べた茶器にそそぐ。

全員で一口飲んで、ほっと一息。

「さて、どこから話したものか」
「この娘と知り合ったところから」

一番気がかりだったことを尚香が言う。顔見知りでもそれほど深い仲ではないのは、今までのやり取りでよくわかる。
なればこそ、どこで知り合ったのか知るべきだ。

「昨日、お前等が帰ったあとすぐさ。文盛達に講釈垂れてたらいつのまにか横に居た」
「ハラワタがどうの、骨と筋肉がどうのと、大変参考になった」

食事時に言うことではないというのに、安陽はヘラヘラ笑いながら茶を飲む。

「それで、医に興味があるとか色々言って、勝手に会う約束して帰った。そんときは血臭が強くて香のことはわからんかったから、どうせ来れねぇと思って場所教えたんだよ」

まさか本当に来るとは思わなかった、と錬仁は頭を掻く。

「あ、そうだ。薬返してよ。あれあたしのよ」
「宮に置いてきた。ケチ臭いこと言わんで先生に作ってもらえよ」
「人の物返さない方がよっぽどケチ臭いじゃない」

それでも安陽の言うことは一理あると納得して、尚香は渋々矛を収めた。
このやり取りに孫策と貂蝉と夏侯惇は内心ヒヤヒヤしていた。どうもこの3人以外は、自分達の身分の重さをよく理解できていないらしい。

言葉と態度一つで同盟が破棄されかねないというのに。

「ていうかさぁ……なんでそんな偉い人があんなところに居たの?将軍連れて嫁探しでもしてたの?」
「(うおぉぉぉ〜〜やめてくれ尚香〜〜黙っててくれ〜〜)」

妹の止まらない爆進に、孫策のお茶を持つ手が震える。隣の貂蝉の手も震えている。
これ以上虎の穴を刺激しないでくれと祈りつつも、

「どうせ自分の目で確かめたかったんだろ」
「(先生ーーーー!!)」

尚香が突撃するための道を錬仁が作るという悪循環。もうお茶の味などわかったものじゃない。

「社会見学が目的だったんだ。あんなことしてると知っていたら来なかったよ。まったく……親父に文句言っとかんと」
「お前は本当に嘘が下手だな」
「だから、どうしてそうホイホイと人の秘密を暴けるんだアンタは」

もう錬仁相手に誤魔化しが利かないと悟ったのか、安陽はあっさり自分の嘘を肯定した。
だがこの二人以外話が見えないので、錬仁はタネを明かす。

「車騎将軍ともあろう御仁が、宮下の歌交のことを気にかけるわけねぇだろうが」

至極最もな意見だった。政で忙しい身なのに、ほとんど関係がない歌交の情報に何の意味がある。

「刑を手配したのは確かに曹孟と―――失礼。曹操だろう。当然日時や場所も。逆に歌交は場所も日時も不定期。重なったのは偶然だが、あそこにお前が居たのは偶然じゃない。いや、もしかしたら間諜を使って図っていたとか?」
「当たり7割」

あ、馬鹿――――孫策は声に出さず叫んだ。
そう言い方をすれば、錬仁の行動は決まっている。残りの3割を当てようとするのだ。

「そ〜んさ〜く」

ほら来た――――努めて冷静に振舞いながら、孫策は上ずった声で返事をした。

「この女に見覚え無いか?」
「今日会ったばかりだ。あるわけねぇだろ」
「それじゃあ示唆を出そう。曹操の傍にこの女はいなかったか?」

その一言で、孫策と貂蝉から余裕が消えた。
一族の長として、智謀に長けた者として、この一言はある事実に行き着くことを察知してしまった。

「もう少し言おうか?曹操に水を注いでいた女は―――――」
「あぁ………その女だった」

みすぼらしい格好、解いた髪の所為でわからなかったが、よく見れば確かにそのような気がする。
確定できない、そんな気がする程度のことだが、孫策は錬仁の問いに是と答えた。

「大体読めた………が、それをここで言うのは憚られるかな?」
「余計な争いを避けたければ10年待て。その頃には親父も隠居する」

10年後に曹操は表舞台から消える。まるでそうなることがわかっているような口ぶりが、錬仁の考えを肯定した。

「じゃあ聞かせてもらおうか。前漢時代に途絶えた酷刑……そんなものを蘇らせた理由を」
「理由は2つ。欲しい人材が一人居てな。そいつの部下を懐柔する材料に使った」

その言葉に、尚香は一つ疑問がわいた。

「昨日処刑されたのって山賊じゃないの?」
「その賊の頭が欲しいのさ。ソイツはあの呂布の鎧を盗んだんだぞ?なかなか見所がある」

呂布という名前を聞いて、貂蝉の肩が少しだけ跳ね上がった。

「どうして!?国賊をわざわざ招くなんてどうかしてる!」

尚香は錬仁に同意を求めた。離れ離れになる原因で、彼の腕を落とした連中と同じ人種は許せないだろうと。
ところが錬仁はおかしくないことだと言った。

「山賊と言っても黄巾みたいに元農民だったり、落ち逃れたどこかの軍隊ということもある。徴兵して農民を減らせば収穫が少なくなるだろ?だが元山賊で元軍人なら、短い期間で使い物になる」
「お前たちも知っているだろうが、袁の軍事力は並大抵ではない。将兵も人員もあって困るものじゃないんだよ」

袁と一括りにしたその言葉は、古き名家を滅ぼすということだ。

「袁家を攻めるつもりか!」
「袁術を落とせば、いくらアイツでも腰を上げる。お前に手を貸すというのはそういうことだ」
「名家だぞ?!」
「これからの時代にそんなものはいらん。下らんことに拘るから漢は滅び、帝の威光は地に落ちる。私が滅ぼすんじゃない。時代に乗り遅れたものが滅ぶんだ」

安陽は声を大きくして立ち上がった。

「黄巾も董卓も時代を見誤った。栄華を極めた楽園は消え嵐の時代が訪れる。名家などという無能は淘汰され、力と智を持つ平民が台頭する時代が来る」
「だが威光はいるはずだ!国をまとめる抑止として!」
「家が立派でも住むものが下郎では意味が無い。お前ならわかるはずだ」

袁術の暴挙はひどいものだった。御璽を手に入れた途端、贅沢の限りを尽くし、民を苦しめているという。
それは臣下にも伝染し、水すら満足に飲めないと噂されている。

「この嵐を乗り切るには多くの力と智がいる。先生、アンタのような智が!」

静観していた錬仁に視線が集まった。

「私の下でその智を広めろ、大勢に手を差し伸べろ!その為なら将軍の地位すらくれてやる!」
「ちょっと、先生は――――」
「孫、お前たちも私の下へ来い!」

尚香の声を遮って、今度は孫策に口を向ける。

「下れというのか!」
「同盟だ。袁術が消えれば江東一帯を手中に収め、うまくすれば一大勢力になるだろう。ただの太守であるお前が君主になるのも夢ではない」
「そんなことが………」
「群雄割拠とはそんな夢物語が実現する時代を指す」

今ここで、ただの薬師が将軍になろうとしている最中だ。
そして同盟というのも魅力的だ。今回の訪問は孫からの支援要請で、曹操の機嫌一つで全て決まる。
だが確固たる同盟を結べば、政治面や軍事面から断りにくい関係が築ける。

袁術を叩くために必要なものが確実に手に入る。この魅力は抗いがたい。

「お断りだ」

その抗いがたい魅力を、錬仁はまるでその辺に落ちている石を蹴るように一蹴した。

「どうしてだ!権力と人が揃えば、アンタはより多く人を助けられるじゃないか!」
「お前のやり方が非常に気に食わんだけだ。自分で火をつけて、自分で消すような奴の傍になんかいたくねぇよ」

ギリィ―――ー安陽は錬仁の言うことに思うところがあるのか、反論しようとした口を固く閉ざした。
そして意気轟沈に見紛うほど落ち着いた安陽は、ひどく落ち着いた声で切り出した。

「先生……私の傍役にならないか?」
「閹官って意味じゃなさそうだな」

安陽公主に仕えるとなれば、将軍どころか最悪その辺りにいる丁稚並みの身分になる。そして去勢しなければならない。
職の格が一気に下がったのかと思えば、どうやらそういう意味ではないらしい。

「今の俺は孫策の食客だ。縁があればそのとき雇ってくれよ」
「………また来る」

仕方がないとため息を一つ吐いて、安陽は夏侯惇を立ち上がらせ、小屋から出て行った。

「やれやれ、15になる娘が大変だねぇ」

温くなった茶碗に新しい茶を入れて、香りと一緒にため息を吐く。

「だねぇ……じゃねぇよ先生。わかるように言ってくれっつっただろうが」
「文句は安陽に言ってくれ。話をずらしたのはアイツだ」
「そんなもんどうでもいい。さぁ、俺達にもわかるよう説明してもらおうか」

貂蝉を除く全員が孫策の要求に追従した。彼女だけは苦笑して、錬仁に妥協を薦める。

「まったく……これは本来お前等がやらなきゃいけないことなんだぞ」

面倒くさい。そう諦めて、錬仁は温くなる前に茶を全て飲み干した。








順に説明しよう。
あの2人は安陽公主と夏侯惇将軍で、処刑を見るために市井へ忍んで来た。
凌遅死刑にした理由は言ったとおり、賊の頭を懐柔する脅しだ。あんなもん見せられりゃ誰だって頭を下げる。

「どうしてあの娘は先生を迎え様としたの?将軍の地位まで出して」

求賢令でもわかるように、あいつは優秀な人材を欲している。過去の栄光と名声ではなく、泥臭い知恵と力をな。
今の医なんざ、同じ病でも地方によって治し方が違うから、少しでも多くの例が欲しいってところだろ。

「じゃあどうして断ったんだ?俺のところよりよっぽど待遇がいいじゃねぇか」

理由はいくつかある。
一つは金も名声も地位にも興味が無い。だいたい政なんか知らねぇんだ、1年もしないうちに誰かに殺されるわ。

二つ目、アイツのやろうとしたことがわかったから。

「あの女の人、ただの公主様なんでしょ?片目の人は将軍様だけど、女が何かをするなんて」

俺と話が通じてる時点でただの公主じゃねぇよ。それに……多分アイツは曹操の軍師に近い立場にいるはずだ。女なのにだ。
それだけ曹操の周りには優秀な人材がいないんだろうよ。だから求賢令なんか出してるんだ。

「はい先生。あの女の人は何をするつもりなんですか?俺にはさっぱりわかりません」

………………。アイツは、この国全てを巻き込んだ乱を起こすつもりだ。

「乱世?そんなの父様の時代からずっとやってるじゃない」

規模が違う。冀州の黄巾の乱、洛陽の董卓討伐のような局所的なものじゃない。この大陸全土で戦を促すつもりだ。

「どうしてそのようなことが出来ましょうか!」

新しい時代を築くためさ。そのために必要な新しい技術を手に入れるために。
命を懸けて知恵を振り絞り、新しい技術を生む苗床を戦場と呼ぶ。アイツはそれを大陸全土で起こそうしている。

「貴方は、何故そのようなことを起こすと言えるのです!」

この国を脅かしかねない可能性を持つ孫を滅ぼさない理由は、それしかない。
漢という一つの国では戦など起きないが、同列の国があればいくらでも争う機会がある。アイツはソレを望んでいるから、袁術討伐に力を貸すんだ。

アイツは言っただろう?漢は滅び、帝の威光は地に落ち、力と智を持つ者が次の時代へ行ける、と。まるで蠱毒の壺だ。

「どうしてそんなことするのよ!」

知らんわ。それをしなきゃならねぇ理由をどこかで見つけてきたんだよ。
ただの公主が将軍二人を使ってまで成そうとする理由をな。










「こんな世じゃ誰が何を考えたっておかしくない。坊さんが言ったように、あのとき蒼天は終わったのかもしれないなぁ」

話せる限りの全てを終えた錬仁は、冷たくなった最後の一口を飲んで、どこか寂しそうに、そう締めくくった。

夜も遅い――――錬仁はそれを理由にして、孫策達を帰らせた。

「文盛、水が心もとなくなった。井戸から補充しておいてくれ」
「はい。あ〜こりゃ少ねぇや。瓶ごと持っていったほうが早ぇ」
「あ、じゃあ私も手伝う」

二人は護身用の道具を持って、えっちらおっちらと仲良く瓶を持って夜の町へ繰り出した。
一人残された錬仁は寝るための準備をするために商売道具を仕舞う。

「貂蝉さん、いるんでしょう?」

唐突に、戸が壊れてなくなった入り口に向けて声をかける。
すると錬仁の指摘どおり、たった今孫策達と出て行った貂蝉が、外から入ってきた。

「流石………わかっていたのですね」
「こんな置き土産があればね」

そう言って錬仁は落ちてあった短刀を持ち上げた。
これを取りに帰ることで、二人キリで話す口実にしたらしい。

「わかっていると思いますが………聞きたいことがございます」
「曹操のことでしょう?」

短刀を受け取った貂蝉は錬仁と向かい合うように座った。

「彼は生きているのでしょうか?」
「十中八九死んでいるでしょうね」

やはり――――同じ予想を得られ、大して驚くことなく頷いた。

「俺は最初、曹操の使いであの二人が来たと言った。処刑と雇用は例え夏侯惇将軍でも簡単に決められない。だが、あの仮説は必ず曹操が自ら行わないといけないのに安陽は否定した。。他の連中がやったら越権行為で首が飛ぶ」
「加えて高位の地位を、公主が独断で決められるわけがない。では、何故彼の死を隠す必要がありましょう」

曹操の子供には跡を任せるのに遜色ない有望な人物が多いと聞く。
後見人を夏侯惇に任命すれば間違いはほぼ起きないだろう。

「曹操の存在に拘る意味で言うなら、誰かを欺き、時間を稼ぐためでしょうね」
「袁を攻めるため?それとも攻められないため?兵力は群雄の中でも随一と言われておられるのに?」
「…………。あの公主は代々続く名家を討つと言った。役立たずだから、と」
「………まさか!?」
「そう、新しい国を作るつもりでしょう。漢を乱世に導いた名家など、役立たず以外の何でもない」
「帝位を得て統一する心算でしょうか?」
「あの女が発展を望むのであれば、献帝の権威ではなく実権。その上で国を作れば、劉表は帝を起たせるために対立せねばならない」
「これで二国。三国目こそ孫策様が?!如何な理由で!?」
「玉璽など、いかがかな?」

貂蝉は今度こそ絶句した。
玉璽を持っているからと言って、帝を名乗るには少しはったりが効かない。しかし、帝を迎える下地には大いに使えるモノだ。

帝自身を持つ曹操が実権を握り、帝の威を蔑ろにする曹操を立場上許せぬ劉表が起ち、玉璽を持ち主に返さんとする孫策が国を作る。
たった一人の凶行が大陸を巻き込む一大事になろうとしている。

「隆中は是で成ると!?」
「蠱毒の壺は完成し、互いに食らいあい、技術が育つ」
「そのようなことが………まかり通るなど………」

貂蝉は涙した。董卓に近づき、呂布と関係を結び、結果として呂布も裏切った。
心も体も血に染めたのは一重に世の平穏を願ってのこと。

「錬仁様、あの方をお止めください!」

もう自分ではどうしようもできない。権力も安陽に近づく方法も無い貂蝉には、錬仁にすがるしかなかった。

「俺はどこにも仕官する気は無い。政は――――」
「あの方が貴方を求めたのは、同じことを考察し結果を出した知恵を欲してのこと。留めよとは申しませぬ、せめて――――」
「尚更だ。アイツは目的を達成するために必要な人材を集めているだけだ。邪魔になるとわかれば即捨てるだろうよ」

それが権力者だと、貂蝉は身をもって知っている。
もし安陽公主が暴君であれば、錬仁もなんとかしたかもしれない。だが公主は大陸の未来を憂いて行動している。
夏侯惇将軍が付き従っているのも、おそらく公主の考えに賛同したからだ。

「止める方法は……無いのでしょうか?」
「隆中が実ならずとも、その時々で新しい策を考えるでしょう。それこそ国中の人間が一丸となってこの都を壊滅しない限り」

実質不可能と錬仁は言う。
そして口惜しいことに、己が出した答えも錬仁と同じ結果を出していた。