袁術を討つべしと上奏する曹操を善と判断した王朝は、孫策、呂布、陳璃に勅を出す。
しかし呂布は袁術と組み曹操に叛旗を翻し、孫策はわずかな兵で袁術を討たなければならなくなった。


3年の冬は未だ終わらない。






翌日、孫策率いる一軍は呂布、陳璃と合流するべく銭唐へ向かう準備にくれていた。
急遽加えられた曹操の軍を交えた運営を周瑜に丸投げしても、大将というものはとかく忙しい。

「と、思ってたんだけど、なんでそんなに暇そうなんだよ」

その忙しいはずの孫策から、出発前に会おうと誘われた錬仁は、太守という職業に心底呆れていた。どうせ夜になれば会うのは変わらないのに。

「俺はおおまかな方針を決めるだけで、細かいところは周瑜がやってくれるのさ。上にいるからこそ、手を出したらいけねぇ仕事ってのがあるんだよ」

それでも、孫策の手元には竹巻と墨があり、話している最中でも手が動いている。

「そんなもんかい。で?話があるってなんだ?」
「あぁ、これやるよ」

そう言って孫策は、脇に置いていた細い竹簡を錬仁に手渡した。

「これは庶民に対する挑戦状だな?」
「ぁ? ……あ、そうか!読めねぇのか。いや、てっきり先生なら字ぐらい習ってるもんかと。氏も持ってるし」
「黄巾がいなけりゃ習ってたかもな。………なんて書いてんだよ」

片手で竹簡を開いた錬仁はミミズのような軌跡を眺め、すぐに降参を示した。

「わかりやすく言えば、江東までの関所を制限無しで通れますよってこった。戦が始まると県を移動しにくくなるだろ?」
「あ、そりゃいいな。ありがたく使わせてもらうわ」

流浪であるがゆえの問題は多くある。間諜や物資の監視をする関所は、有事の際通行止めを行うなど茶飯事であり、その都度割を食らうのは彼等庶民だ。運が悪ければ、長い間一定の区画から動けなくなることもある。

錬仁のような旅人にとって喉から手が出るほど価値があるものだ。

「でよ、この戦で俺が負けると、その手形が使えなくなる」
「…………テメェ」

孫策は机に肘を乗せ、口を隠してのたまった。とどのつまり、『それあげるからなんかちょーだい』と言っているのだ。
そして孫策が欲しいものは、薬のような即物的なものではない。

「先日呂布が、淮河の氾濫により行軍を見合わせると伝えてきた。つまり、袁術とは陳璃と俺だけで挑むことになる。頼む……力を貸してくれ」

孫策は今にも土下座をしそうな声を搾り出した。衰退していても名家という肩書きは伊達ではなく、何十万石もの兵糧を持ち、同じ分の兵力を持っている。
ここへ来て呂布の不参加により、数の差はもとより精度の差も大きく離れてしまった。

この状況で袁術に勝つのはほぼ不可能と判断した孫策は、錬仁に頼る他なかった。この状況を踏んだ上で勝とうとしている周瑜、他の将軍には出せない智恵を求めて。

そして錬仁が出した智恵は――――――。

「お前は根本的に間違っている」
「は?」

智恵にもならない指摘だった。呆ける孫策に対し、してやったりといった顔で笑う錬仁は続ける。

「お前なら寿春の現状ぐらい知ってるだろ?」
「そ、そりゃあもちろん」

皇帝を称した袁術が暴政を振るい、都の機能を完全になくしてしまった半廃墟。直接の後ろ盾があった時期の孫策は書簡を送って鎮まるよう説得したが、やはり聞き入れられることはなかったという。

「今は『まだ』何十万石もある。じゃあ一年後はどうだ?その間にお前みたいに兵を連れて離反するやつがいないとでも?そいつ等を料理するのもお前の仕事だろうが」

兵を吸収するなど、戦では日常茶飯事。むしろ勢力を広げるために、それが目的のひとつでもある。

「袁術はもう詰んでるんだよ。戦争をする元気もなけりゃ、補給も絶望的。時間が経てば勝手に自滅する奴と戦って負けるわけねぇだろうが」
「……はは、そうか……」

ほぼ勝てる。そう告げられた孫策はホッと胸をなでおろした。

「なに安心してんの?」
「なにって、袁術のことが――――」
「だから根本的に違ぇって。なんで曹操が勝ち戦の後押しするのか考えてみろよ。どうみても不自然だろうが」
「………いや、それは特に…」

勝ち戦だからこそ曹操は後押ししたと、孫策は言う。負け戦ならとっくに見限り、曹操自ら打って出ただろう。
孫策を起用したのは、そのほうが己の損が少なくなると踏んだにすぎない。

負けても痛手はわずか。勝っても得られるのは疲弊した国。すでに潤沢な土地を持つ曹操には、あまり魅力的な戦ではなかったのは事実だ。

「じゃあ、お前ん所だけで十分だったのに、わざわざ呂布と陳璃って奴を動かすのは自然なんだな?」
「………そうだな。それは確かにおかしい」

会見で交わされた約束は、兵糧と新兵、そして僅かな将ということだった。ところが陳璃はともかく、呂布を連れ出すのはいささかやりすぎている。
そして、その呂布は城から出ようとしない。

「その呂布って奴はほっといてもいい。陳璃って奴の動向は抑えときな。誰が何を企んでるにしろ、信用できる奴なんざ数えるほどしかいねぇんだからよ」
「あぁ……ありがとよ先生。やっぱ頼りになるよアンタは」
「せめて本業のほうで頼りにしてもらいたいね」

それは断る――――真剣な顔でそう返した孫策に、錬仁は、それでいい――――と笑った。










ペタペタと、夜中の寝室を裸足で歩き回る音がする。
その人物は鼻息を荒くして、何かに苛立っているのかしきりに指の爪をかじっている。

悪い癖だ――――その様子を眺めている夏侯惇は、従兄弟の忘れ形見の姿にそっとため息を吐いた。

「目立つところに傷を付けるな。明日は諸侯と豫州へ行くんだぞ?」

彼女を思っての忠告だったのだが、返事は―――うるさいやい―――の一言だった。

「あ〜も〜、なんで!?将軍になれますよぉとか言ったら普通飛びつくだろ!ウチよりあんな太守のとこがいいって何!?」
「見ず知らずの小娘の戯言とか思われただけじゃないか?」
「そんなアホならここまで悩まんわ」

一頻り唸った安陽は最高級の布団を敷いてある寝具に勢いよく飛び込んだ。
そして枕を抱いて、寝具の上をゴロゴロと回り始めた。

「欲しいのよ〜。先生が欲しいの〜!」
「……やれやれ」

先日の奇妙な逢瀬が終わってから、足しげく通い続けている安陽は、寝室に帰る度にこの調子だった。
夏侯惇の記憶では、使える人材を見つけたときは大なり小なり似たような奇行を起こしていたが、今回は輪に掛けて酷い。

昼はしっかり公主として務め、曹操の傍で水汲みをしているが、夜になればこの通り。その姿は薬師と話していた時のような智嚢とは程遠い。
それだけ釣り逃がし続けている獲物は大きいらしい。

「あぁ、今日もですか将軍」

公主と夏侯惇将軍がいる部屋に、突然3人目の声がした。仮にも曹操の娘と将軍が居る部屋に声一つ掛けないで入室など、本来なら斬首ものである。
だが慣れているのか、安陽は変わらずゴロゴロ転がり、夏侯惇は同意を示すため息を吐いた。

「勝手に借りてるぞ〜、『曹操様』」
「人目が無いときならソレは無しとあれほど……」
「ただの八つ当たりで〜す」

この都で天子の次に偉い人物、曹孟徳は少し涙目になって―――そうですか、と嘆いた。

「ご苦労だった。議の方は?」
「要望どおり、陳璃殿を推挙できました。あとはそちらがお願いします」

公主が寝転がり、曹操が敬語を使って、配下の夏侯惇は上司口調で話す。それも曹操の寝室でだ。これほどおかしな構図は世界広しといえどここだけの話だろう。

「しかしよろしいのですか?孫は袁術討伐の隠れ蓑でしょう?このようなことをしては………」
「この前陳璃が、呉軍太守として云々とか言って娘を送ってきた。孫と被るからどっちかにまとめるだけだよ」
「ですが、陳璃殿が負けては不都合では?」
「……ふ〜ん」

安陽は寝転がった体勢のまま、不敵な笑みを浮かべて曹操をねめつける。

「農民も慣れればここまで言えるもんだねぇ〜」
「も、申し訳――――」
「いいよ。自分の周りがどう動いているのかわかってもらえれば、こっちも動かしやすい」

安陽は近くにある灯りに息を吹きかけて、揺らし遊ぶ。

「むしろ負けてくれんと困るんだよ。陳璃が死ねば軍は吸収され、孫に袁術と厳白虎を始末する下地が整う。どっちも大した勢力じゃないのに太守とかほざいてるし、この際片方に寄ってもらう」
「だがお前の上奏では、呂布と陳璃と孫が袁術を討つ手はずだ。小勢力とはいえ、袁術を相手に軍の数が減るのは致命的だろ」
「いいんだよ、袁術の軍も減ってるから」

夏侯惇将軍、そして農民と言われた曹操の首が傾く。

「ウチの元左将軍があらかた減らしてくれてる。そして仲直りして同盟したはいいものの、頼りの元左将軍は小沛でウチを相手に篭城中。そろそろあのウンコでもこの状況に気づくかな」

名前などを一切出さず、蔑称や役職のみで相手を指しての言葉は、農民の曹操にはわからなかった。
だが夏侯惇は、流石に将軍というだけあって元左将軍に心当たりがあった。

一年前の建案2年、袁術を撃退した呂布に与えた官職が左将軍なのだ。

「呂布の後ろに袁術が居たのか!?」
「じゃなきゃあの筋肉馬鹿が、ここまで持ちこたえるわけなかろうが。まぁ高順や陳宮は馬鹿だけどそこそこ有能だけど」

その馬鹿でそこそこ有能の高順に負けている夏侯惇は、キリキリと痛む胃に耐えるため歯軋りをする。
知っててこういう言い方をするのがこの娘だ。

「で、だ。自分の大軍を潰した呂布をなんとか仲間に入れた矢先に、援軍を出すことも期待することもできないわけだ。今頃どんな気分で玉璽を抱いているのやら」

この時代では絶対しない独特な笑い方をして、器ごと灯りを揺らす。
袁術の命は、まさにその灯火と同じだ。安陽の気分しだいでいつでも消える風前のモノだ。

「ま、まさか呂布を推挙したのは……」
「同盟している国を攻めろと言われれば、嫌でも叛旗を立てんとなぁ」

九尾狐――――倭では白面金毛九尾と呼ばれる妖怪がいるが、この女は曹操の娘ではなく、その生まれ変わりではなかろうか。
少しだけ重なった偶然をここまで大事にしてしまえる智嚢は、そう思わせるほど恐ろしいものがあった。

袁術は皇帝を名乗る前から悪政を強いていた。だが先祖が手に入れた土地から得られる人材は相応に多く、袁紹に次いで強い勢力を持っている。兵糧が多いだけでも圧倒的有利なのだ。

それでも相次ぐ離反が兵力を一気に減らした。結果負け続きの袁術は武勇を誇る呂布を頼ることになる。
たったそれだけのことで、安陽はこの一計を案じた。これを恐ろしいと言わず何とする。

そして夏侯惇はもう一つ思う。
その恐ろしい九尾狐が、外聞を捨てて駄々をこねるほど欲しいと叫ぶ薬師を手に入れたら、この世はどうなってしまうのだろうか、と。

「おかしいと思ったんだ。孫に呂布を攻めさせるような言い方をして、袁術へ向かわせた理由がコレか」
「予想以上に使えそうな将が孫に居たから慌てて変えたよ」
「あの薬師を相当気にかけてるな。確かに智はありそうだが、将としては……」
「先生は戦じゃ使えない」

安陽は息を強く吹いて灯りを消した。無数にある灯りの一つが消えても部屋の明度はあまり変わらないが、安陽と夏侯惇の心境は少しだけ冷たく、暗くなる。

「智見の深さはそこらの菅氏よりずっとある。それは庶民の知識であって、兵法・軍略に通じるのはわずかだ」
「だが奴は医者だ。怪我が治れば有利になるだろう」
「そう考えていた時期が私にもあった」
「と言うと?」

自分では考え付かない理由が知りたくて、夏侯惇は先を促す。
だが安陽は答えず、ニンマリと笑みを浮かべた。彼の経験ではこのあとに出てくる単語は、

「教えてあげないよ」

いつもこうらしい。だがその場合は例に漏れず軍事行動に関して大した問題ではないことが、夏侯惇の胃に優しい配慮だった。

「あの博識の士といい、群雄割拠といい。親父の言う通り、やはり時代は転換期を迎えている。よし、今日も先生のところ行くぞ」
「無茶を言うな。明日には孫が出て行くんだ、アイツ等も都を出て陣に帰っているだろ」
「はっはっは、ばーか。孫はこのまま銭唐へ行くんだぞ?将でもない友人兼食客の貧民を戦場に連れて行く奴が――――ー」








「つーわけで先生、銭唐に行こうぜ」
『ここに居たし………』

都の端にある小さな家に、曹操の娘と従兄弟の将軍、呉郡太守とその末姫が連日のごとく集まる異常に彼等が慣れてきた頃、孫策が唐突に切り出した。
まさかありえないと思っていたことが起きてしまったため、安陽と錬仁は頭が痛そうに目頭を押さえる。

決して錬仁特製の雑炊で頭を痛めているわけじゃない。

「今回ばかりは断るぞ。いくらなんでも戦場についていくことはできん」
「大丈夫だって、俺の軍なんだから。俺の傍に居れば流れ矢も来やしねぇよ」
「陣地で食客に刺された奴がよー言うわ。とにかく、俺は行かない」

彼の断固とした態度は、尚香と貂蝉の説得でも変わらなかった。

「ずっとタダ飯食らってばっかりってのもなんだしな。鈍らないうちに外に出ておきたい」

流浪の民である錬仁が、食客として恵まれた場所に居るのは好ましくない環境だった。
ただの道楽で話を聞く程度の滞在ならよかったが、どうも孫策や尚香は孫の縄張りの中に入れたいらしい。

この時世ならば、成り上がることも不可能ではないだろう。現に赤貧の小豪族だった男が、武将になって戦っている最中である。
ところが錬仁は文人でもなければ武人でもない、ただの医者。博識ではあるが、実を言うとそれだけなのだ。

文武の違いは明白だが、少ないながらも共通して必要な技能が求められる。その中でも代表されるものを錬仁はもっていない。
それは、

「(俺、字読めねぇし。せっかくだから読めるようにしとくか)」

致命的なモノだった。

「なら丁度いい。今度は私の所へ来い。ウチは裕福だから、コイツ等が死んでも養ってやるぞ」

文句を言おうにも、立場上何も出来ない孫策は安陽の暴言を苦笑で受け流した。
妹が遠慮なしに牙を向けているので、冷や汗も混ぜて。

「ウチには倭から届いた薬や道具があるぞ。もし使えそうならくれてやってもいい」
「え?本当?いいの?」

異国の名前が出て、錬仁の目が爛々と輝いた。
釣れたと確信した安陽は更に畳み掛ける。

「実は先日、薬草を取りに行っていたジジィ――――華佗が帰ってきたんだ。同じ職業なら、積もる話もあるんじゃないか?」
「それは別にいい」

錬仁は医学の偉大な人間を異国の道具より下だと言い切った。それに調子を崩された安陽だが、食客として迎えることが出来てホッと胸をなでおろす。

「も〜、先生の馬鹿!帰ってきたら絶対返してもらうからね!」
「敗走して帰ってきたら返さんから覚悟しておけ」

見ようによってはじゃれあいだが、言っていることは不敬罪と死刑宣告のようなものだ。
孫策と夏侯惇は痛む胃を押さえて錬仁の雑炊を呷る。

ほんの少しだけ痛みが和らぐような気がした。